法福寺(読み)ほうふくじ

日本歴史地名大系 「法福寺」の解説

法福寺
ほうふくじ

[現在地名]宇奈月町明日

かつての北陸街道(上街道)から東に延びた参道奥にあり、明日山と号し、高野山真言宗。元来法福寺の名は惣名で、同所の千光せんこう寺ももとは一六坊の一であった。本尊は十一面観音像、左座正観音・右座馬頭観音。三尊ともに木仏で、仏師春日の作という(「磯野平左衛門書状」温故遺文)越中観音霊場三三番札所(稿本越の下草)。貞享二年寺社由緒書上は大同元年(八〇六)開山とする。開祖については「越中宝鑑」は僧幻識とするが、神亀二年(七二五)行基説もある。弘法大師の巡化により真言宗に転じたという。貞享二年寺社由緒書上に七堂伽藍・一六坊を有したが、兵火などにあい焼失したといい、本堂・庫裏・仁王門のみ現存する。


法福寺
ほうふくじ

[現在地名]清水町楠本 西原

西原にしはら集落高所にある。阿覚山と号し、真言宗山階派。本尊阿弥陀如来。本堂内には別の木造阿弥陀如来坐像、二十五菩薩像(ともに県指定文化財)をはじめ数十体にのぼる客仏が安置される。創建は不明であるが、当寺の薬師堂再建の棟札には正徳五年(一七一五)の紀年銘がある。一方、江戸時代後期には楠本くすもと観音堂があり、「続風土記」は「柵にあり、旧村中に慈恩寺といふ寺ありしに退転の後観音堂・来迎堂を此地に移すといふ」と記す。慈恩じおん寺の名は当寺蔵大般若経の第一〇〇巻奥書跋文に「右般若経者、当国石垣庄成道寺御経也、然永享十二年蒙諸方化縁之助、而直銭十貫文置買得之、則修覆之、奉寄進楠本慈音寺」とみえ、また千手観音立像の光背修理銘に「保田庄楠本村本堂慈恩寺、中尊千手観音并ニ聖観音地蔵二尊(中略)以上十一尊悉奉再興並ニ法福寺於薬師堂再興仕者也」とある。


法福寺
ほうふくじ

[現在地名]和歌山市和歌浦中二丁目

光暁閤と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。「続風土記」によると、興国年中(一三四〇―四六)北畠了空の開基と伝え、本願寺三世覚如の時代にあたるが、不詳。ただし覚如期かどうかは別にして、蓮如の布教以前に開基したと思われる形跡がある。当寺が所蔵する親鸞木像の銘文に「文明九丁酉仲冬中蜀、無量寿仏垂迹尊像、於江湖諸窺奉写造之、願主釈蓮祐」とあり、木像が造られたのは文明一八年(一四八六)の蓮如の紀州来訪以前である。また親鸞木像は木像より絵像、絵像より名号という蓮如の考えに反し、さらに親鸞が「無量寿仏垂迹」であるという教えは蓮如のものではないとされる。


法福寺
ほうふくじ

[現在地名]下関市幸町

紅石べにいし山の西に位置する。臨済宗東福寺派で高照山と号し、本尊は聖観音。

寺伝によれば、天正一〇年(一五八二)真如善叟によって旧稲荷いなり町に創建され善福ぜんぷく寺と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「法福寺」の解説

法福寺

富山県黒部市にある真言宗の寺院。山号は明日山。寺伝では806年開山とされる。本尊は奈良の仏師春日の作と伝わる十一面観世音。4月に奉納される稚児舞は「越中の稚児舞」として国の重要無形民俗文化財に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の法福寺の言及

【宇奈月[町]】より

…1954年,東山・愛本・内山の3村が合体,町制。扇頂部東岸の明日(あけび)は稚児舞で知られる法福寺の門前町として開け,西岸の浦山は江戸時代に北陸道の宿駅であった。大正末の日本電力の起工以後急激に発展した町で,愛本より上流の黒部峡谷内に黒部川第4発電所など10発電所(関西電力),下流に6発電所(北陸電力ほか)があり総出力約90万kW(1997)に達し日本屈指の水力電源の町である。…

※「法福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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