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湊川の戦い みなとがわのたたかい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

湊川の戦い
みなとがわのたたかい

延元1=建武3 (1336) 年5月,摂津の湊川における足利尊氏,直義軍と楠木正成新田義貞軍との合戦。九州に敗走した尊氏が勢力を回復して東上すると,これを後醍醐天皇の勅命で正成,義貞らが迎え討った。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉の解説

みなとがわ‐の‐たたかい〔みなとがは‐たたかひ〕【湊川の戦い】

延元元年=建武3年(1336)九州から東上した足利尊氏直義の軍が、湊川新田義貞楠木正成らの軍を破った戦い。義貞は敗走、正成は戦死。

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大辞林 第三版の解説

みなとがわのたたかい【湊川の戦い】

建武政府の崩壊と足利幕府の成立を決定させた合戦。1336年五月、九州から東上した足利尊氏兄弟の大軍を新田義貞・楠木正成の朝廷軍が摂津兵庫浜の湊川付近に迎え撃ったが、新田勢は敗走し、楠木正成は奮戦のすえ自害。足利軍は京都を占領、南北朝時代が開始されることとなった。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

湊川の戦い
みなとがわのたたかい

1336年(延元1・建武3)5月25日の摂津国(せっつのくに)湊川(兵庫県神戸市)における足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)軍と楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)軍との戦い。1335年(建武2)後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に反旗を翻した足利尊氏は、義貞軍を破って翌1336年1月入京したが、まもなく北畠顕家(きたばたけあきいえ)に追われて九州へ走った。しかし尊氏は同年3月2日筑前(ちくぜん)多々良浜(たたらはま)(福岡市)で九州最大の後醍醐方である菊池武敏(きくちたけとし)を破り、勢力を挽回(ばんかい)して4月3日博多(はかた)を出発、海路を東進して兵庫に向かった。これに対する後醍醐方は、楠木正成の提案した戦術、すなわちいったん京都を明け渡し、兵力を養ったのちに叡山(えいざん)と河内(かわち)の両方面から挟撃するという主張を退け、兵庫で迎え討つ態勢をとった。正成は5月22日弟正季(まさすえ)らとともに西下したが、一族親類が正成の軍勢催促に難色を示したことなどから前途の困難を判断し、子息正行(まさつら)を桜井駅(さくらいえき)(大阪府三島(みしま)郡)で河内に帰して、腹心の部下700騎ほどで決死隊を編成した。湊川を背に会下山(えげやま)に陣する正成軍と和田岬に陣する新田軍を割るように、尊氏軍の先発細川軍が和田岬に上陸し5月25日戦いが開始された。3時間16回にわたる死闘が繰り広げられ、正成軍は残兵73騎となり、自身も傷を受け、湊川の北の在家に入って火をかけ弟とともに自害した。この戦いは、後醍醐側にとってはもっとも強力な武将楠木正成を失った戦いであり、尊氏側にとってはまもなく成立する室町幕府への道を開いた重要な戦いの一つとなった。[黒田弘子]

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