中国,河北省満城県城南西3kmの陵山上にある中山靖王劉勝(1号墓)と夫人竇綰(とうわん)(2号墓)の墓。1968年に発掘調査された。石灰岩の岩壁をくり抜いて築いた大規模な洞室墓で,1号墓は墓道,甬道(ようどう),南北耳室,中室,後室からなり,全長51.7mある。甬道と南耳室は馬車庫,北耳室は食・飲料庫,中室は中央に鍍金帷帳を置いた庁堂で,多数の器物が並べられていた。後室は石門で区画され,内部に板石で石屋を築き,北端に棺床を設ける。棺槨(かんかく)は朱漆塗1槨1棺で約2500片の玉片を金糸でつづった金縷玉衣(きんるぎよくい)に包まれた遺体があった。2号墓は1号墓の北約120mにあり,後室が中室の南に付くほかは1号墓と同じ構造である。北耳室が馬車庫,南耳室は倉庫,中室の器物は大部分明器で実用器は少ない。後室南端に棺床があり槨はなく,棺は外側に璧(へき),内側に玉版片を貼り付け,棺内に金縷玉衣に包まれた遺体があった。副葬品は1号墓の銅器がすべて実用器物で種類も多く,鍍金銀,金銀錯,玉石象嵌の精巧な器物が多いのに対し,2号墓は長信宮灯,朱雀銜環坏,金銀錯鑲嵌銅豹などのほかは明器が多い。1号墓は銅器に刻された銘文から元鼎4年(前113)に死没した武帝の庶兄,中山靖王劉勝墓,2号墓は出土の印章から夫人竇綰墓で,1号墓より遅れ太初1年(前104)をややさかのぼるころの築造とされる。両墓とも規模広大で盗掘もなく,被葬者,築造年代とも明確で,前漢中期の最高統治階級の墓制の全容を明らかにした画期的な発見である。
執筆者:秋山 進午
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1968年、中国、河北省満城県の西部、陵山の山頂近辺で、人民軍兵士が発見した漢代の古墓。第1号墓は武帝の兄、中山王の劉勝(りゅうしょう)、第2号墓はその妻、竇綰(とうわん)を葬っている。第1号墓は入口に二重の壁をつくって、その間に融鉄を流し込んで固めていた。墓室の入口には耳室が左右に配され、中室、後室も備わっている。入口から51.7メートルの地点に棺が置かれていた。壮大な宮殿という趣(おもむき)がある。副葬品も数多いが、なかでも金縷玉衣(きんるぎょくい)は逸品である。小さい玉札を綴(つづ)って頭から足まで覆う皇帝、貴族の葬服である。玉は軟玉に属するネフライトで、新疆(しんきょう)から運んだものであろう。墓の内部は現世の生活そのままに日用品などが数多く埋葬されていた。銅器では、「楚(そ)大官糟鐘(そうしょう)」は酒壺(さけつぼ)であるが、これは呉楚七国(ごそしちこく)の乱(前154)の劉戊(りゅうぼう)のものを没収し、改めて勝に与えたと考えられる。「長信宮燈」は銘(めい)に陽信家とあり、陽信侯劉楬(りゅうけつ)の絶家ののち、所有を転じて勝のものとなったのであろう。
[好並隆司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…墓中の山岳はやはり現実の自然でなく,仙境を示すからであろう。 武帝期の大型墓には1968年,河北省満城発見の劉勝・竇綰(とうわん)墓がある(満城漢墓)。前漢の帝王陵が未調査の現在,漢朝宮廷の日常使用器物の実際をうかがう好資料である。…
…墳丘をつくらず自然の丘を利用して大規模な横穴式墓室をつくることもある。ギリシア,ミュケナイのトロス(穹窿墓(きゆうりゆうぼ))や中国の満城漢墓,唐の乾陵がその最たるものである。 墓の前に拝殿など祭祀の施設をつくることもある。…
※「満城漢墓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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