日本大百科全書(ニッポニカ) 「満洲族」の意味・わかりやすい解説
満洲族
まんしゅうぞく
Manchu
17世紀から20世紀初頭にかけて中国を支配した清(しん)朝を築いた民族。満州とも表記されるが、正しくは満洲。中国では現在、満族とよばれる。本来、いまの遼寧(りょうねい)省を中心に、吉林(きつりん)省、黒竜江省など中国東北地方(旧満州)を居住地とするが、清朝の中国進出によって一部は全土に拡散した。中国領内の人口は1038万7958(2010)である。
中国東北地方の諸民族については周代より記録があり、そのころ「粛慎(しゅくしん)」とよばれる人々が毛皮や楛矢(こし)、青石の鏃(やじり)などを中原の諸王朝に献上していたことが知られている。その後、紀元前後からは夫余(ふよ)、挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)などの諸民族が興亡し、7世紀には粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)と高句麗(こうくり)の遺民らが中心になって渤海(ぼっかい)を建国した。このうち夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている。渤海は10世紀に滅亡するが、11世紀には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる女真(じょしん)(女直(じょちょく))が現れ、12世紀には金王朝を開いて(1115)、渤海を滅ぼした契丹(きったん)の遼(りょう)を倒し、宋(そう)を南に圧迫した。金は漢字をもとに独特の文字(女真文字)をつくり、猛安・謀克制など独自の統治体制をとって漢化を防ぐ努力をしたが、モンゴルに滅ぼされた(1234)。元(げん)・明(みん)時代の女真は、遼東(りょうとう)の建州女真、松花江(しょうかこう)流域の海西(かいせい)女真、黒竜江方面の奥地の野人(やじん)女真の三部に大別されて、モンゴル、漢族に支配された。しかし、明朝の勢力が揺らぐ16世紀にはその支配を脱し、ふたたび統一の気運が高まった。とくに中国に近く、文化程度も高かった建州女真は、有力な氏族(ハラ)の一つであるアイシンギョロ(愛新覚羅(あいしんかくら))氏からヌルハチ(太祖)が出るに及んで勢力を急速に伸ばし、1616年に東北地方を手中に収めて再度女真の国家を築き、後金(こうきん)と号した。後金はその後も発展し、ヌルハチの子ホンタイジ(太宗(たいそう))はモンゴルを併合し、朝鮮を属国として国号を清と改め、またこのころ民族名も「満洲」と改めた。なお、原音はマンジュmanjuであり、それに字を当てて満洲とした。そして1644年には李自成(りじせい)の乱で滅亡した明にかわって北京(ペキン)に入り、それ以後1911年の辛亥(しんがい)革命に至るまで中国、モンゴル、新疆(しんきょう)、チベットに君臨した。清は中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、独自の軍事、行政、生産機構である八旗制度を制定し、弁髪を漢族に強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策をとったが、それでも漢文化の浸透と漢族の入植を阻止することができず、清代を通じて満洲族はその言語(満州語)と文化のほとんどを失う結果になった。
東北地方は明代までは半猟半農状態が続き、まだ石器類や土器、骨角器類も使用されていたといわれる。しかし、その後は大興安嶺(だいこうあんれい)などの山岳地帯や松花江、黒竜江などの大河川流域などで狩猟と漁労の果たす役割が大きかったものの、建州女真や清代以後の満洲族は牛馬の牧畜を伴う畑作農耕民であった。また、中国東北地方は豚の産地でもあり、夫余、靺鞨の時代から飼われていたとともに、近代には良質の豚が飼育されていることでも知られていた。家屋、服飾には漢族の影響が強いが、女性は纏足(てんそく)をせず、漢族にも強制した弁髪は古来よりの髪型であった。彼らの社会には強い父系原理が働いており、父系氏族(ハラhalaまたはモクンmokun)が主要な社会組織であり、父系拡大家族が主要な経済単位であった。そして一族の統合の象徴として族譜(氏族成員の名前と関係を記した系譜)があり、廟(びょう)などにたいせつに保存された。彼らの宗教は、婚姻儀礼、葬送儀礼などに彼ら独自のシャマニズム(シャーマニズム)や祖先崇拝の要素が入っていたが、仏教(チベット仏教も含む)や漢族の民間信仰の影響も強かった。
満洲族は辛亥革命以降、概して冷遇された状態にあったが、文化大革命以降の少数民族政策の転換によってその地位も改善されている。しかし、大多数が言語と古来の文化を失っている現在、満洲族の民族としての存立は祖先を満洲族にもつという各個人の意識にかかっているようである。
[佐々木史郎]
『S・M・シロコゴロフ著、大間知篤三他訳『満州族の社会組織』(1967・刀江書院)』▽『村松一弥著『中国の少数民族――その歴史と文化および現況』(1973・毎日新聞社)』