中国、後金(こうきん)国と清(しん)朝を通じての満州人を中心とする社会組織で、これを基礎に兵制も構成された。八旗制に属する人を旗人(きじん)といい、当時の特権階級である。八旗とは黄、白、紅、藍(あい)の四色旗(正黄旗などと称する)と、この四色旗に縁どりをした四色旗(鑲(じょう)黄旗などと称する)の合計8種の軍団の旗印をさす。女直(じょちょく)(女真(じょしん))人は狩猟を生活基盤としていたが、17世紀の初めにヌルハチ(清の太祖)の手で、狩猟の際の巻狩りを原型にして社会組織が構成された。これが八旗の始まりである。ヌルハチは周辺の女直諸部族を平定するとこれを組織化して、初めは二旗、ついで四旗とし、1616年の後金国成立時には八旗ができあがった。さらに太宗ホンタイジ時代に内蒙古(もうこ)や遼東(りょうとう)半島の漢人を平定すると、それまでの満州人を中心とした八旗(後の八旗満州)に対して、蒙古人、漢人を中心とする八旗蒙古、八旗漢軍が組織され、計24旗に膨張した。
各旗の構成、所属旗人の数などは時代によって異なるが、原型は、300人の壮丁を一牛彔(ニル)(満州語で矢の意味。漢名は佐領(さりょう))とし、これが基本単位で、五ニルで一甲喇(ジヤラン)(漢名参領(さんりょう))、五ジャランで一固山(グーサ)(漢名旗)であった。つまり一旗には7500人の旗人が所属した。ただし、八旗蒙古、漢軍は数のうえでかなり少ない。後金国時代に満州人のすべては八旗に編成され、国は同時に旗であって、徴税、軍役、賞与、略奪物の分配などすべてニルと旗を単位に行われた。各旗には行政、軍事上の長官として「都統」が設置されたが、同時に、ヌルハチ自身とその直系の子孫たちが「旗王」として各旗を支配し、汗(ハン)(皇帝)であるヌルハチは鑲・正黄旗の二旗の旗王でもあった。後金国時代の政治はこれら旗王の合議制で行われ、ハン位も旗王の推挙によるものであった。
1636年の清朝の建国と44年以後の中国全土の支配に伴い、多くの被支配者に対して旗人は支配者として特権階級となり、徴税の免除、旗地の支給などの経済的特権とともに、行政上でも民籍とは別に旗籍に編入され、刑法も一般人とは別に各旗に従った。
旗人の経済的基礎は旗地にあったが、商品経済の隆盛と奢侈(しゃし)などから破綻(はたん)をきたし、18世紀初めにかけて生活困窮に陥った。この状況を打破して、あわせて旗王権力を削減して皇帝権力の下に八旗を掌握しようと、八旗制を改革したのは雍正(ようせい)帝であるが、18世紀末には旗人の困窮は救済方法もなく、乾隆(けんりゅう)末年からの白蓮(びゃくれん)教徒の乱をはじめとする諸反乱に対して、八旗は軍事力としても有効でありえなくなっていた。
[細谷良夫]
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中国,清朝の軍事・行政組織。1616年(万暦44・天命1)ヌルハチの建てた後金国は,八つのグサと呼ばれる集団から構成されていた。1グサの基本単位はニルと呼ばれ,300人の壮丁から成り,隊長をニル・エジェンと言った。この300人中の選ばれた者が兵士(甲士uksin)となり,他の者(余丁)は農耕や輜重(しちよう)を担当した。ニル制定ころの兵士は1ニルに50人ほどであった。5ニルを1ジャラン(甲喇)といい,壮丁1500人から成り,5ジャランを1グサとした。1グサは7500人の壮丁を出しうる軍事・行政組織である。グサは各1人の隊長(エジェン)が統率した。グサの中国語訳は旗で,全部で八つのグサがあったので総称して八旗といった。各旗はそれぞれ色のちがった軍旗を標章とした。黄・紅・白・藍の4色で,各色にそれぞれふちどりのある旗とない旗とがあり,全部で8種となる。そしてたとえば黄旗でもふちどりのない旗を正黄旗,ある旗を鑲黄旗というように呼んだ。
清国の拡大とともに八旗中にモンゴル人や漢人が増えたので1635年(天聡9)満州八旗から蒙古八旗が分設され,42年(崇徳7)漢軍八旗が設けられた。44年清朝が北京に都を定めると,八旗の将兵も北京やその近郊に移住し禁旅八旗とか京旗とか呼ばれた。ついで地方の要地に派遣され駐留するようになったが,これらは駐防八旗と呼ばれた。八旗の将兵は生活保証のため旗地という田地を与えられていたが,奢侈な消費生活を送り人口も増えたため困窮化した。そのうえ北京移住後は中国化し昔の素朴な気風を失って弱体化した。清末に近代的軍隊が組織されると八旗は有名無実化し,辛亥革命とともに滅亡した。
執筆者:河内 良弘
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清朝軍事力の中核となった独自の軍事組織。八旗とは正黄,鑲黄(じょうおう),正白,鑲白,正紅,鑲紅,正藍(せいらん),鑲藍の旗をいい,それぞれ1隊を構成し標識とした(正旗は縁取りがなく,鑲旗にはある)。満洲固有の社会組織をもとに男300人を1ニル,5ニルで1ジャラン,5ジャランで1グサ(旗)を編成した。そのために八旗は軍団組織のみでなく,行政・社会組織でもあった。ヌルハチが創始し,太宗(ホンタイジ)期には八旗蒙古,八旗漢軍も成立し,従前のものを八旗満洲とした。入関後は,北京駐在の禁旅八旗(京旗)と外省駐留の駐防八旗に大別され,清朝支配権力の支柱をなした。
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…その前年,彼は内モンゴルのチャハル部を圧服して大元伝国の玉璽(ぎよくじ)を入手していたから,これによって満・蒙・漢3族のハンおよび皇帝の位を一身で兼ねあわせたことになる。清朝権力の基礎である八旗制度は,もともと狩猟の方式であり,同時に戦闘体制でもあるが,それはまた満州族の政治・社会体制でもあった。八旗の基本単位はニル(牛彔。…
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