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八旗 はっきBa-qi; Pa-ch`i

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

八旗
はっき
Ba-qi; Pa-ch`i

中国,後金清朝を通じて満州人を中心として行われた軍事・社会組織。八旗とは縁どりのない黄,白,紅,藍の四色旗 (正黄旗などと呼ぶ) と,この四色旗に縁どりをつけた四色旗 (鑲〈じょう〉黄旗などと呼ぶ) の8種類の旗印で,17世紀初めに清朝の太祖ヌルハチ (奴児哈赤) の手で,彼ら女真人の巻狩りのシステムを原形として制度化された。初めから八旗がつくられたわけではなく,太祖の周辺部族が平定されるにつれて諸部族が旗に吸収され,後金国の成立時に「八旗満州」ができ,次いで内モンゴルの平定や投降漢人の増加によりモンゴル人を中心とする「八旗蒙古」と漢人による「八旗漢軍」が成立した。中国内地に進出すると八旗の大部分は北京に居住区を割当てられて駐留したが,そのほかに中国全土の重要拠点に駐防八旗として派遣され,また北京周辺にも畿輔 (きほ) 駐防として派遣された。歴代の皇帝は八旗を清朝成立の基盤として重視したが,18世紀末頃から経済的に破綻をきたし,乾隆末年の白蓮教の乱などでは軍事力としても無力であることが判明した。旗の組織は 300人の壮丁をニル (→佐領 ) といい,5ニルで1ジャラン (→参領 ) ,5ジャランで1グーサとした。このグーサが旗である。軍役,徭役の負担や略奪物の分配,旗地の配分などすべてがニルと旗を単位に行われた。旗に組織された者を旗人といい,清朝一代を通じて行政,刑法などの適用は旗人と一般人と異なった。旗の支配者として皇帝と皇帝の一族が旗王としてあたり,特に雍正帝のときまでは旗王の権力が強く,八旗制に関するかぎり皇帝独裁権は成立しえなかった。

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デジタル大辞泉の解説

はっ‐き【八旗】

中国、後金国および朝の満州人を中心とした軍事・社会組織。清の太祖が制定した。全軍を旗の色によって黄・藍・紅・白・鑲黄(じょうおう)・鑲藍(じょうらん)・鑲紅・鑲白の八軍に分け、各軍に兵7500人を配属。のち、太宗の時代に蒙古八旗漢軍八旗が設けられ、北京遷都後には北京を本拠とする禁旅八旗と地方に常駐する駐防八旗となった。

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百科事典マイペディアの解説

八旗【はっき】

中国,清朝軍事力の中核となった独自の軍事・行政・社会組織。軍編制の色別旗に黄・白・紅・藍の4色を用い,それぞれに正旗(縁取りのない旗),【じょう】旗(じょうき)(縁取りをした旗)の2種があり,8旗とした。
→関連項目旗地郷勇ダフール(達斡爾)族

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世界大百科事典 第2版の解説

はっき【八旗 Bā qí】

中国,清朝の軍事・行政組織。1616年(万暦44∥天命1)ヌルハチの建てた後金国は,八つのグサと呼ばれる集団から構成されていた。1グサの基本単位はニルと呼ばれ,300人の壮丁から成り,隊長をニル・エジェンと言った。この300人中の選ばれた者が兵士(甲士uksin)となり,他の者(余丁)は農耕や輜重(しちよう)を担当した。ニル制定ころの兵士は1ニルに50人ほどであった。5ニルを1ジャラン(甲喇)といい,壮丁1500人から成り,5ジャランを1グサとした。

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大辞林 第三版の解説

はっき【八旗】

中国、清朝の軍事・行政・社会組織。満州族を旗色によって八隊に編制したのでこの名がある。のち、蒙古八旗・漢人八旗を設けたが、北京遷都後は北京の禁旅八旗と各地の駐防八旗とした。所属の将兵は旗人といい、特権身分とされた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

八旗
はっき

中国、後金(こうきん)国と清(しん)朝を通じての満州人を中心とする社会組織で、これを基礎に兵制も構成された。八旗制に属する人を旗人(きじん)といい、当時の特権階級である。八旗とは黄、白、紅、藍(あい)の四色旗(正黄旗などと称する)と、この四色旗に縁どりをした四色旗((じょう)黄旗などと称する)の合計8種の軍団の旗印をさす。女直(じょちょく)(女真(じょしん))人は狩猟を生活基盤としていたが、17世紀の初めにヌルハチ(清の太祖)の手で、狩猟の際の巻狩りを原型にして社会組織が構成された。これが八旗の始まりである。ヌルハチは周辺の女直諸部族を平定するとこれを組織化して、初めは二旗、ついで四旗とし、1616年の後金国成立時には八旗ができあがった。さらに太宗ホンタイジ時代に内蒙古(もうこ)や遼東(りょうとう)半島の漢人を平定すると、それまでの満州人を中心とした八旗(後の八旗満州)に対して、蒙古人、漢人を中心とする八旗蒙古、八旗漢軍が組織され、計24旗に膨張した。
 各旗の構成、所属旗人の数などは時代によって異なるが、原型は、300人の壮丁を一牛(ニル)(満州語で矢の意味。漢名は佐領(さりょう))とし、これが基本単位で、五ニルで一甲喇(ジヤラン)(漢名参領(さんりょう))、五ジャランで一固山(グーサ)(漢名旗)であった。つまり一旗には7500人の旗人が所属した。ただし、八旗蒙古、漢軍は数のうえでかなり少ない。後金国時代に満州人のすべては八旗に編成され、国は同時に旗であって、徴税、軍役、賞与、略奪物の分配などすべてニルと旗を単位に行われた。各旗には行政、軍事上の長官として「都統」が設置されたが、同時に、ヌルハチ自身とその直系の子孫たちが「旗王」として各旗を支配し、汗(ハン)(皇帝)であるヌルハチは・正黄旗の二旗の旗王でもあった。後金国時代の政治はこれら旗王の合議制で行われ、ハン位も旗王の推挙によるものであった。
 1636年の清朝の建国と44年以後の中国全土の支配に伴い、多くの被支配者に対して旗人は支配者として特権階級となり、徴税の免除、旗地の支給などの経済的特権とともに、行政上でも民籍とは別に旗籍に編入され、刑法も一般人とは別に各旗に従った。
 旗人の経済的基礎は旗地にあったが、商品経済の隆盛と奢侈(しゃし)などから破綻(はたん)をきたし、18世紀初めにかけて生活困窮に陥った。この状況を打破して、あわせて旗王権力を削減して皇帝権力の下に八旗を掌握しようと、八旗制を改革したのは雍正(ようせい)帝であるが、18世紀末には旗人の困窮は救済方法もなく、乾隆(けんりゅう)末年からの白蓮(びゃくれん)教徒の乱をはじめとする諸反乱に対して、八旗は軍事力としても有効でありえなくなっていた。[細谷良夫]

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世界大百科事典内の八旗の言及

【清】より

…その前年,彼は内モンゴルのチャハル部を圧服して大元伝国の玉璽(ぎよくじ)を入手していたから,これによって満・蒙・漢3族のハンおよび皇帝の位を一身で兼ねあわせたことになる。清朝権力の基礎である八旗制度は,もともと狩猟の方式であり,同時に戦闘体制でもあるが,それはまた満州族の政治・社会体制でもあった。八旗の基本単位はニル(牛彔。…

※「八旗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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