秋田県西部,八郎潟南方に位置する市。2005年3月飯田川(いいたがわ),昭和(しようわ),天王(てんのう)の3町が合体して成立した。人口3万4442(2010)。
潟上市北東部の旧町。旧南秋田郡所属。1935年町制を施行し,42年大久保町,豊川村と合体して昭和町となったが,50年に分町した。人口5027(2000)。八郎潟南東岸に位置し,八郎潟調整池に面する。湖東平野の中心となる水稲単作地帯で,集落は羽州街道(国道7号線)に沿った街村形態をなす。八郎潟干拓事業では地先の東部干拓により水田面積を拡大した。飯塚には醸造業があり,清酒は全国各地に出荷されている。65年秋田市,男鹿市などとともに新産業都市に指定された。飯塚の神明社観音堂は江戸時代前期の建築で重要文化財に指定されている。JR奥羽本線が通じる。
潟上市東部の旧町。旧南秋田郡所属。人口8997(2000)。八郎潟南東岸に位置し,東部は太平山地,西部は八郎潟の南をふさぐ天王砂州の一部を含む。中心の大久保は近世羽州街道の宿場町として発達,明治以降は八郎潟でとれるワカサギ,シラウオなどのつくだ煮製造が盛んであったが,八郎潟干拓後は衰退した。豊川は近世以来,歴青(アスファルト)の産地として知られ,大正期には豊川油田も開発されて,昭和初期には石油の採掘が盛んであったが,現在は天然ガスが中心となっている。1965年秋田市,男鹿市などとともに新産業都市に指定され,電気機械工場などが立地し,秋田自動車道の昭和男鹿半島インターチェンジがある。砂丘地ではリンゴなどの果樹栽培,菊などの花卉園芸も行われる。八郎潟漁労用具などを集めた昭和歴史民俗資料館がある。JR奥羽本線が通じる。
潟上市西部の旧町。旧南秋田郡所属。人口2万1687(2000)。八郎潟の南に位置し,男鹿半島と本土を結ぶ陸繫砂州の天王砂丘上にある。町名は牛頭(ごず)天王社(現,東湖八坂神社)にちなむ。船越水道をはさんで船越(現,男鹿市)と相対する天王は,船川街道の船待場として栄えたが,1898年八竜橋が開通,1913年船川線(現,男鹿線)の開通により二田(ふただ)駅が設置され,中心は二田に移った。砂丘上では果樹栽培,施設園芸が盛んで,砂丘列間の低地には水田が開けている。八郎潟干拓では地先干拓により380haの耕地を拡大した。65年に秋田市,男鹿市などとともに新産業都市に指定され,秋田市のベッドタウンとして住宅開発も行われ,県内の市町村で1990-95年の5年間に最も人口増加率が高い。東湖八坂神社の7月7日の祭典は牛乗りと蜘蛛舞の奇祭として知られる。
執筆者:佐藤 裕治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
秋田県中西部に位置する市。2005年(平成17)、南秋田郡昭和町、飯田川町(いいたがわまち)、天王町(てんのうまち)が合併して成立。西は日本海に面し、北は八郎潟調整池を挟んで大潟(おおがた)村、南は秋田市と接している。JR奥羽本線が通じ、男鹿線(おがせん)を分岐する。中央部を国道7号が走り、101号と285号を分岐する。また、秋田自動車道の昭和男鹿半島インターチェンジが設置されている。
農業は稲作のほかにキク、バラなどの花卉(かき)栽培が盛んである。西部は男鹿半島と本土を結ぶ陸繋(りくけい)的地形をなし、砂丘上でナシ、ブドウなどの果樹が栽培される。八郎潟調整池ではノリなどの養殖漁業が行われる。酒やしょうゆなどの醸造業が盛んで、秋田湾臨海工業地域の一部として繊維などの工業が立地する。西部の昭和工業団地などに企業進出がみられる。
神明社観音堂は国の重要文化財、八郎潟漁労用具は国の重要有形民俗文化財。東湖八坂神社のトウニン行事(統人行事)は国指定重要無形民俗文化財。農村指導者石川理紀之助(りきのすけ)の遺跡と業績を紹介する郷土文化保存伝習館がある。南部の豊川油田跡は「新潟など関東甲信越地域で始まった我が国近代石油産業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の一つ。出戸浜海水浴場、多種類のウメが栽培される「梅の里」などがある。面積97.72平方キロメートル(一部境界未定)、人口3万1720(2020)。
[編集部]
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