寛政~文化年間(1789-1818)ごろに遊里を中心に流行した俗謡。原歌としては〈潮来出島の真菰(まこも)の中で 菖蒲(あやめ)咲くとはしおらしや サテヨイヤサヨイヤサ〉〈さっさ押せ押せ下関までも 押せば港が近くなる〉が知られている。本来は茨城県行方(なめかた)郡潮来地方の舟歌であるが,潮来が太平洋岸から江戸川に入る要港であったところから,色街の宴席でうたわれたこの歌が各地に伝播し,盆踊歌や遊里の座敷歌になり,歌舞伎の踊歌にもとり上げられた。《藤娘》の〈潮来出島〉がそれである。ただし,その先後関係についてはまだ不明な点が多い。1775年(安永4)刊の黄表紙《金々先生栄花夢》の中での芸者の歌に〈四谷新宿馬(ま)ぐその中によ 女郎あるとはつゆ知らず きたきたきたさぬきの金毘羅〉とあるが,これは《潮来節》の替歌であり,はやしことばは明和・安永期(1764-81)に流行した《金毘羅節》のものである。〈さっさ押せ押せ〉ということばは櫓櫂を押す意が原型だが,《金毘羅節》のはやしことばと結合して〈さっさおせおせきたさのさ〉という浮かれことばとなって各地に広まったと思われる。
執筆者:須藤 豊彦
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江戸中期の流行唄(はやりうた)。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島(かしま)、香取(かとり)両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和(めいわ)(1764~72)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化(ぶんか)(1804~18)にかけて大流行した。7775の26文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)『潮来出島』、民謡『潮来音頭』『潮来甚句(じんく)』として残っているにすぎない。
[倉田喜弘]
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…遊客の間で歌われたのが〈おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がつけられた歌で,《神戸節(ごうどぶし)》と呼ばれた。この歌は明和(1764‐72)ころから江戸で流行していた《潮来節(いたこぶし)》に似た曲調で,まもなく地元ではすたれたが,江戸や上方に流れて《名古屋節》と称された。1838年(天保9)江戸の寄席音曲師だった都々逸坊扇歌(?‐1852)が,同じ《潮来節》を母体とした《よしこの節》の曲調を変化させ,名古屋節の囃し詞を加えて〈どどいつ節〉を大成し,旗揚げしてから〈どどいつ〉の名称でもてはやされるようになった。…
…劇場音楽(義太夫節,清元,長唄など)や花柳界の音楽(河東節(かとうぶし),一中節(いつちゆうぶし)など)とは違って,一般の庶民が支えた短詞型の三味線音楽。大流行した最初の歌は《潮来節(いたこぶし)》で,1780年代(天明ころ)から半世紀にわたって各地で歌われた。次いで《夜桜》《ほれて通う》《わしが国さ》などが生まれ,はやり歌としても愛唱される。…
…江戸時代の流行歌(はやりうた)。文政(1818‐30)の初めごろ,江戸の街を流していた飴売(あめうり)が潮来節(いたこぶし)を歌い,終りに〈コリャマタヨシコノ ベコシャラベコシャラ ヨシコノヨシコノ〉と囃したてた。それを変化させて,二上りの三味線で歌いだしたのが《よしこの節》の起りになっている。…
※「潮来節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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