改訂新版 世界大百科事典 「うた沢」の意味・わかりやすい解説
うた沢/哥沢/歌沢 (うたざわ)
邦楽の種目。うた沢節の略。1857年(安政4)江戸に起こった三味線小歌曲で,端唄に源を発している。芝金(しばきん),寅右衛門(とらえもん)という二つの家元があり,芝派が〈哥沢〉,寅派が〈歌沢〉と冠名(かむりな)を書くところから,総括した名称を〈うた沢〉と表記することが,大正の初期から行われている。
江戸の末期,嘉永(1848-54)ごろの端唄の流行は,多くの愛好者を生んだが,愛好者たちのグループを〈連(れん)〉といった。その一つ,江戸人形町大丸新道の女師匠さわの所に通っていた畳屋の平虎(ひらとら)(2世歌沢寅右衛門),は組火消しの辻音(つじおと)(1824-94,本名福井音次郎)など,約50人あまりは,〈うたのおさわ〉の弟子というので,〈歌沢連〉と称していた。やがて,さわが亡くなり,妹,きわが稽古を続け,五百石取り旗本の隠居で笹本彦太郎(1797-1857,号は笹丸,歌沢絃三),御家人の三男坊柴田金吉(初世哥沢芝金),小普請(こぶしん)方の次男森語一郎(1826-86,のちの萩原乙彦,歌沢能六斎(うたざわのうろくさい))といった武家も仲間となり,端唄の流行が,三味線の騒ぎ歌としかみられなくなったのを嘆いて,〈もっと品のよい重みのある歌,節もていねいに細かくうたうようにしたらどうか〉と考えたのが,端唄を母体とした新しい三味線小歌曲の創作であった。学識のある笹本彦太郎が中心となり,秘書役で森語一郎,平虎,柴田金吉,辻音,そのほか数人が参画,水が集まって〈沢〉になるごとく,いろいろな音曲を加味した〈歌〉の集大成といった意味を含めて〈歌沢〉と称することにした。1857年(安政4)6月,遊芸に関する認可の窓口になっていた嵯峨御所の江戸出張所から新流の許可がおり,笹本彦太郎が〈歌沢大和大掾(やまとだいじよう)〉という名を受領,ここに〈歌沢節〉が誕生した。翌7月には,家元を平虎に譲って笹丸は同年9月死去。
2代目家元,平虎改め歌沢寅右衛門の膝下に入ることを嫌った柴田金吉は,1861年(文久1)に嵯峨御所より認可を受けて別派を樹立,寅右衛門の〈歌沢〉に対し〈哥沢(世間では〈かざわ〉と称した)〉を冠して,初世哥沢芝金を名乗った。その後,芝金は歌舞伎との接触を図るなどして急速にうた沢を発展させ,3世芝金が節調の改良を試みて流行に拍車をかけ,明治の時代は芝派独占の形で推移した。しかし4世寅右衛門の出現が,大正・昭和の寅派を一大勢力となし,うた沢の隆盛をもたらした。《紫の結び目(本むら)》《紀伊の国》《わがもの》《宇治茶》《薄墨》などが代表曲で,〈語り〉の要素をも加えた技巧的な歌と,その間を拾うように弾く三味線に特色がある。同じ端唄を母体とした後進の小唄に押され,衰退気味である。
執筆者:舘野 善二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報