都々逸(読み)どどいつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

都々逸
どどいつ

俗謡の形式名。7・7・7・5の4句 26文字で男女の情愛などをうたうもの。この4句はさらに細分すると3・4,4・3,3・4,5となる場合が多い。その詞章は多くは即興で作られ,俳諧川柳などと同じく大衆の即興文学としての意味もある。定型のうえに5文字1句を加えて5句 31文字とするものや,下2句の前にほかの俗曲を挿入して「アンコ入り」と称するものなど,各種の変型がある。三味線を伴奏にする場合が多く,調子は本調子正調である。 18世紀後半,潮来 (いたこ) 節,尾張どどいつ節,上方のよしこの節などの形を経て江戸で完成し,天保9 (1838) 年8月1世都々逸坊扇歌寄席でうたったのを機として流行したといわれる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディアの解説

都々逸【どどいつ】

俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で,典型的な近世歌謡調7・7・7・5型をもつ。18世紀末名古屋の熱田で流行した潮来(いたこ)節に由来する。天保年間に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で,新しい曲風で歌って以来普及。〈どどいつどいどい,浮世はさくさく〉という囃子詞(はやしことば)が,都々逸の名の起りとする説もある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

どどいつ【都々逸】

俗曲の一種。度々逸,都々一などとも書く。《名古屋節》の囃し詞〈ドドイツドイドイ〉から名付けられた名称という。1800年(寛政12)名古屋の熱田神宮の門前,神戸(ごうど)町の宿屋に私娼を置くことが許され,女たちを〈おかめ〉と呼んだ。遊客の間で歌われたのが〈おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がつけられた歌で,《神戸節(ごうどぶし)》と呼ばれた。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

都々逸
どどいつ

俗曲の一種。都々一、都度逸、独度逸、百度一などとも記す。歌詞から受ける印象によって「情歌(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の26文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは1790年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る1850年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる。
 1870年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、『よしや武士』と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも『南海謡集』(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので、1904年(明治37)、黒岩涙香(くろいわるいこう)は歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する『萬朝報』(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も30年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田(あつた)で歌われた『神戸節』(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある。[倉田喜弘]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

国民皆保険

すべての国民をなんらかの医療保険に加入させる制度。医療保険の加入者が保険料を出し合い,病気やけがの場合に安心して医療が受けられるようにする相互扶助の精神に基づく。日本では 1961年に国民健康保険法(...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

都々逸の関連情報