日本大百科全書(ニッポニカ) 「濱谷浩」の意味・わかりやすい解説
濱谷浩
はまやひろし
(1915―1999)
写真家。東京・下谷(したや)生まれ。日本の風土と民俗を中心的なテーマとして撮影を続け、国際的にきわめて高い評価を得た。16歳ころより写真を始める。1933年(昭和8)関東商業学校を卒業し、実用航空研究所に入所、航空撮影の仕事につく。3か月後、同所解散にともないオリエンタル写真工業に入社。同社の運営するオリエンタル写真学校で講習を受ける。1937年退社し、フリーランスとなり、実兄で写真評論家の田中雅夫と「銀スタジオ」を組織し、婦人雑誌などでグラフ・ジャーナリズムの仕事を始める。翌1938年、詩人で評論家の滝口修造を中心に結成された前衛写真研究会に参加。1939年グラフ誌の取材で新潟県高田市(現上越市)を訪れる。翌年、新潟県中頸城(くびき)郡谷浜村(現上越市桑取谷(くわとりだに))の小正月の民俗行事を調査撮影、以後10年間にわたり同地での撮影を続ける。
1941年、木村伊兵衛の招請で対外宣伝プロダクション、東方社写真部に入社し、対外宣伝グラフ誌『FRONT』のため陸軍・海軍関係の撮影に従事したが、翌年同社幹部と対立し退社。1944年の一時期、外務省の外郭団体太平洋通信社の嘱託として文化人らの肖像撮影を手がける。第二次世界大戦末期に新潟県高田市へ移住、敗戦後の1946年(昭和21)、同地のいづもや百貨店で個展「豪雪の記録写真」展を開催した。
1952年、神奈川県大磯町に転居。1954年より3年間にわたり、日本海側の12府県を訪ね、各地の風土を取材した「裏日本」シリーズの撮影に取り組む。日本の風土や民俗を撮影しつづけた濱谷の仕事は、1959年、オランダのライデン民俗博物館での個展「Ook Dit is Japan(これも日本だ)」で高く評価されて以降、国際的にも広く注目を集めるようになる。1960年、寄稿写真家としてパリとニューヨークに本拠を置く写真通信社マグナム・フォトスと契約。同年に起きた安保闘争を取材し、個展「怒りと悲しみの記録」を東京・銀座の松屋で開催、同展はその後数年間にわたり日本各地を巡回した。また、この年から国内各地の火山、海、河川、原生林などをカラー撮影する「日本列島」シリーズの制作に着手(~1964)。
1965年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)「12人の写真家たち――現代写真国際展」に出品。1967年、北米大陸を3か月にわたり自動車旅行し撮影。1969年、ニューヨークのアジアハウスで個展「HAMAYA'S JAPAN」開催、全米を巡回する。1970年代もたびたび海外の展覧会に参加、世界各地で撮影旅行を旺盛に繰り広げた。晩年は大磯の自邸で隠棲。
[大日方欣一]
『『雪国』(『カメラ毎日』別冊・1956・毎日新聞社。改訂復刻版1975・朝日ソノラマ)』▽『『裏日本』(1957・新潮社)』▽『『見てきた中国』(1958・河出書房新社)』▽『『こども風土記』(1959・中央公論社)』▽『『怒りと悲しみの記録』(1960・河出書房新社)』▽『『日本列島』(1964・平凡社)』▽『『潜像残像――写真家の体験的回想』(1971・河出書房新社)』▽『『濱谷浩写真集成 地の貌・生の貌』全2巻(1981・岩波書店)』▽『『學藝諸家』(1983・岩波書店)』▽『『昭和女人集』(1985・毎日新聞社)』