日本大百科全書(ニッポニカ) 「為朝伝説」の意味・わかりやすい解説
為朝伝説
ためともでんせつ
平安末の保元(ほうげん)の乱(1156)で父の為義(ためよし)に従って奮戦し、伊豆大島に流された鎮西(ちんぜい)八郎源為朝に関する伝説。その性剛毅(ごうき)にして弓術に優れていた悲劇の英雄であるゆえもあってか、すでに『保元物語』において超人的な豪傑として描かれている。この物語のころから為朝の話は流布していて、その武勇を惜しむ唱導者たちによって琉球(りゅうきゅう)入りなどの数多くの武勇伝説が生まれたのであろう。終焉(しゅうえん)の地の大島や伊豆諸島にはとくに為朝伝説は多く、その子の為宗(ためむね)が創建し子孫が住職を務めたという宗海寺(八丈島)や、為朝明神の祠(ほこら)がある。古活字本『保元物語』の巻末でも大島配流後に鬼ヶ島に渡っている。三宅(みやけ)島、八丈島、青ヶ島に渡った話もあり、八丈島の巫女(みこ)の語りは為朝が主人公になっている。沖縄にも古くから渡来伝説があり、島尻(しまじり)大里大按司(あんじ)の妹との間に尊敦(そんとん)を生み、妻子を残して帰国したと伝える。この尊敦が沖縄王位の祖舜天(しゅんてん)王となったという。奄美(あまみ)大島にも渡来の故跡があって、実久(さねく)三次郎なる英雄は島の娘との間にできた遺子という。喜界ヶ島、沖永良部(おきのえらぶ)島や徳之島にも落胤(らくいん)の家が伝えられている。馬琴(ばきん)の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は為朝の琉球入り伝説を集大成したものである。そのほか、信州にも為朝の後裔(こうえい)と称するものがあり、その郎党の家と称する地も少なくない。
[渡邊昭五]