源為朝(読み)ミナモトノタメトモ

デジタル大辞泉 「源為朝」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ためとも【源為朝】

[1139~1177]平安後期の武将為義八男。豪放な性格で、弓術に長じた。13歳の時九州へ追われ鎮西八郎と称し、九州を略取保元の乱で父とともに崇徳上皇方となり、敗れて伊豆大島に流された。のち、狩野茂光に攻められて自殺

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精選版 日本国語大辞典 「源為朝」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ためとも【源為朝】

  1. 平安末期の武将。為義の第八子。母は摂津国江口遊女。身体強大・性気剛気。弓をよくした。一三歳の時九州へ追われ鎮西八郎と称し、九州を掠取した。保元の乱に父に従い、崇徳上皇方として奮戦したが敗れ、伊豆大島に流され、のち狩野茂光に攻められ自殺。琉球に渡り琉球王朝の祖となったという伝説もある。保延五~嘉応二年(一一三九‐七〇

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改訂新版 世界大百科事典 「源為朝」の意味・わかりやすい解説

源為朝 (みなもとのためとも)
生没年:1139-77?(保延5-治承1?)

平安末期の武将。源為義の八男,義朝の弟。母は江口の遊女。13歳のとき父の不興を買って九州に追われ〈鎮西八郎〉と号した。その勇力猛威をもって九州中を掠領し,訴えられたが朝廷の召喚にも応じなかったため,1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。やむなく上洛したところ56年(保元1)7月保元の乱が起こり,為朝は父為義に従って崇徳上皇方として参戦した。軍評定(いくさひようじよう)で夜襲を献策したが藤原頼長に退けられ,逆に義朝の献策をいれた後白河天皇方に夜討をかけられた。上皇方は敗れ,父為義は梟首(きようしゆ)された。為朝は近江に逃れ,九州下向を図ったが9月に捕らえられ,肩を抜かれたうえ伊豆大島に流された。配流(はいる)後,大島をはじめ近隣の島々を掠領。そのため工藤介茂光の追討を受け,自殺した。首は京に送られて獄門にかけられた。
執筆者:

保元物語》では,為朝は身長が7尺以上もあって,左手が右手より4寸も長く,強弓をよく引いたとされている。とくに古活字本《保元物語》では次のような伝承が記されている。為朝が伊豆大島に流されてから10年後にシラサギアオサギの飛び去るのを見て,ほかにも島があると思い,出船して一昼夜で島に着く。島人からその島が鬼ヶ島であり,昔は隠れ簑,隠れ笠,浮き沓(くつ),沈み沓などの宝があり,日ごとに人を食らい,生贄(いけにえ)をとったと聞く。為朝はこの島を八丈島の脇島(付属島)と決め,葦島(あしじま)と改名する。また大島では,島の代官三郎太夫忠重(忠光とも)の婿となり為頼など2男1女をもうけた,などとも伝える。

 為朝伝説は各地にあるが,なかでも伊豆の八丈島や沖縄では数多く伝えられている。沖縄の伝説では,為朝が伊豆から風に流されて沖縄の運天(うんてん)港に漂着し,島尻の大里大按司の妹との間に1子尊敦をもうけ,この尊敦が沖縄王の祖舜天王となったと伝えるが,このような伝説の片鱗は月舟寿桂(1470-1533)の文集《幻雲文集》,袋中の《琉球神道記》(1648)に見え,琉球の最初の正史《中山世鑑》(1650)には詳しくこの伝説を記している。伊豆の八丈島の宗海寺は為朝の子の為宗の創建と伝え,八丈小島には為朝明神がまつられている。また八丈島の巫女(みこ)の古謡にも八郎伝説を伝えるものがある。八丈島周辺の為朝の遺跡は,この土着の八郎伝説に《保元物語》に伝える鎮西八郎為朝を付会して成立したものと考えられている。八丈島や沖縄への為朝の島渡りの伝説は,義経や朝比奈の島渡り伝説,さらには豊臣秀頼の薩摩落ち,西郷南洲のシベリア入りなどと同型の伝説である。為朝伝説はまた奄美大島,喜界島にも伝えられ,内陸部では信濃の下伊那郡鎮西野村(現,下条村)などでも伝えられ,また為朝の郎等の三町礫(さんちようつぶて)紀平次にまつわる伝説も伝えられている。馬琴の《椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)》は,これらの為朝伝説を素材にして創作された読本(よみほん)で幅広い読者を得た。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源為朝」の意味・わかりやすい解説

源為朝
みなもとのためとも
(1139―1177)

平安後期の武将。為義(ためよし)の八男、母は江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)の遊女。通称を鎮西八郎(ちんぜいはちろう)という。弓矢の才に優れていた。13歳のとき父の不興を買って九州に追われたが、人に秀でた剛勇さで、菊池氏を味方とし九州中をかすめるほどであった。ついに香椎(かしい)宮によって朝廷に訴えられたが、朝廷の命に従わなかったため、1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。翌年大宰府(だざいふ)に対して、為朝に味方する輩(やから)がないようにせよとの勅が下され、やむなく為朝は朝廷の召還に応じて帰京した。56年(保元1)崇徳(すとく)上皇を擁した藤原頼長(よりなが)が、白河(しらかわ)殿に軍兵を召集した際、源氏の郎党の多くが天皇方である兄義朝(よしとも)についたのに対して、為朝は父に従い上皇方として戦った(保元(ほうげん)の乱)。夜襲の献策が頼長によって阻まれ、ついに白河殿は陥れられた。父は斬(き)られ、為朝は伊豆大島に流罪となった。『保元物語』によると、弓の才を惜しんだ朝廷が、死罪を免じたものという。やがて近くの島をも従えて勢力をもち、悪行を続けたため、工藤介(くどうのすけ)茂光(しげみつ)の追討を受け、安元(あんげん)3年3月6日自殺した。首は京都で晒(さら)された。なお大島から琉球(りゅうきゅう)へ渡り、琉球王朝の祖となったなど多くの伝説がある。

[田辺久子]

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朝日日本歴史人物事典 「源為朝」の解説

源為朝

没年:治承1.3.6?(1177.4.6)
生年:保延5(1139)
平安後期の武将。為義の8男。母は摂津国江口(大阪市)の遊女。義朝の弟。没年月日は『尊卑分脈』によるが諸説がある。幼少より勇猛で,弓の芸に優れていたという。13歳のとき,父為義の不興を買い,鎮西(九州)に追放され,鎮西八郎と称す。豊後国に住し,阿蘇忠景の婿となり,九州各地に勢力を張って自ら鎮西の惣追捕使を称した。久寿1(1154)年,朝廷より召喚されたが応じず,そのため父為義は検非違使を解官された。為朝はそれを知り,手勢を率いて上洛。保元1(1156)年,保元の乱で為義に従い,崇徳上皇方で奮戦した。『保元物語』によれば,内裏高松殿に夜討ちをかけるよう上皇に進言したが,藤原頼長の反対に遭い容れられず,白河殿西門を固めた。攻め寄せた兄義朝と相まみえ,わざと義朝を射殺さず,その弓の技量を示して官軍を恐れさせた話は有名である。敗北後,再起をかけて近江に逃れ,父為義の処刑後も近江国坂田の辺に隠れていたが,源重定に捕らえられた。公卿詮議の結果,その優れた射芸により死罪を免れ,伊豆大島へ流された。配流後は近隣諸島を従えて勢力を張り,嘉応2(1170)年,伊豆介工藤茂光の追討を受け,自害したともいう。為朝に関する伝説は多く,自害せず逃れて八丈島に渡った話や琉球へ渡り琉球王の祖となった話などがある。近世,滝沢馬琴が著した『椿説弓張月』も為朝伝説をもとにしたものである。

(澤野泉)

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百科事典マイペディア 「源為朝」の意味・わかりやすい解説

源為朝【みなもとのためとも】

平安末期の武将。為義の八男。幼時から剛勇で弓術に長じた。13歳のとき父に追われ九州に勢力をはり,鎮西(ちんぜい)八郎と称した。保元(ほうげん)の乱に崇徳(すとく)上皇方として奮戦したが敗れて伊豆(いず)大島に流された。配流(はいる)後に伊豆諸島を従えたが,工藤茂光に攻められ自殺。《椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)》はじめ為朝を主人公とする文学作品は多い。
→関連項目喜界島保元物語

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源為朝」の意味・わかりやすい解説

源為朝
みなもとのためとも

[生]保延5(1139)
[没]嘉応2(1170).4. /安元2(1176).3.6. 伊豆,大島
平安時代後期の武将。為義の第8子。母は江口の遊女。弓の名人として知られる。 13歳のとき父の不興を買って京都を追われ,九州に走った。肥後の豪士の阿曾忠国の婿となり,鎮西八郎と称した。九州では合戦,略奪を繰返し勢力を伸ばした。朝廷では為朝を京都に召し返そうとしたが聞き入れなかったため,久寿1 (1154) 年父為義は解官された。これを知った為朝はやむなく上京し,保元の乱では父とともに崇徳上皇側として平清盛,兄義朝軍と戦ったが敗れ,近江で源重貞に逮捕され,伊豆大島に流された。しかし,ここでも略奪,乱行があり,伊豆介工藤茂光に攻められて自殺した。巷説に,大島から琉球に渡って琉球王朝の祖となったという。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源為朝」の解説

源為朝
みなもとのためとも

1139~70/77

平安末期の武将。為義の八男。母は摂津国江口の遊女。鎮西八郎と称する。13歳のとき父に鎮西へ追放される。武勇にすぐれ,九州各地で騒擾事件をおこし朝廷に訴えられたが,召喚命令に従わなかった。1154年(久寿元)父が解任されたことを知り上洛。保元の乱にまきこまれ,父とともに崇徳(すとく)上皇側で奮戦したが捕らえられた。すぐれた武芸のために死を免れ,伊豆大島に配流。配流後は大島や近隣の島々を襲撃したため,70年(嘉応2)工藤(狩野)茂光の追討をうけ自害したという。「尊卑分脈」は没年を77年(治承元)とする。後世,琉球にのがれ,舜天王(しゅんてんおう)の父になったという伝説がうまれた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源為朝」の解説

源為朝 みなもとの-ためとも

1139-1170 平安時代後期の武将。
保延(ほうえん)5年生まれ。源為義の8男。荒武者で父に九州へ追放され,ここで勢力をはり鎮西八郎と称した。保元(ほうげん)の乱で崇徳(すとく)上皇方につき,強弓をひいて奮戦。敗れて伊豆(いず)大島にながされ,嘉応(かおう)2年(一説に安元3年)追討をうけ自殺した。32歳。琉球にのがれたという伝説もある。
【格言など】院宣と宣旨といずれ甲乙か候(「保元物語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「源為朝」の解説

源為朝
みなもとのためとも

1139〜77
平安末期の武将
為義の第8子で,鎮西八郎と呼ばれる。豪勇で射術にすぐれ,保元の乱(1156)に父とともに崇徳上皇方に加わり奪戦したが敗れ,伊豆大島に流された。のち追討をうけたという。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「源為朝」の解説

源為朝
みなもとのためとも

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治40.3(東京・演伎座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の源為朝の言及

【椿説弓張月】より

…読本。曲亭馬琴作,葛飾北斎画。1807年(文化4)前編刊,11年完結。5編29冊から成る長編で,島渡り伝説で名高い鎮西八郎為朝を主人公としたロマン的な英雄小説。保元の乱に敗れ,朝敵の汚名のもとに伊豆大島に流された為朝が,悲劇的な運命を甘受しつつも,妻白縫姫,一子舜天丸(すてまる),郎党鬼夜叉こと紀平治らとともに,伊豆から讃岐へ,讃岐から九州へ,九州から琉球へと漂泊をかさね,苦難に耐えながら正義に生きる物語。…

【保元物語】より

…《保元記》ともいう。乱は崇徳上皇派と後白河天皇派との皇位継承をめぐる戦いであったが,作中で最も強烈な個性をもって描かれるのは源為朝である。彼は敗北した上皇側に属しながら,一矢で敵2人を射倒したり,鞍もろとも鎧武者を射通して串刺しにするなど,獅子奮迅の働きをする。…

※「源為朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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