日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊野の本地」の意味・わかりやすい解説
熊野の本地
くまののほんじ
御伽草子(おとぎぞうし)の本地物の一つ。室町時代の古写本や絵巻などが数多くあり、15世紀には成立していた。熊野三所権現(さんしょごんげん)の神仏の由来物語で、同内容の物語が南北朝時代の『神道集』に載り、原型がうかがえる。この物語と展開のよく似たものに『旃陀越国王経(せんだえっこくおうきょう)』(『大正新修大蔵経』14所収)があり、また部分的に類似するものに平安時代初期筆録の『東大寺諷誦文稿(ふじゅもんこう)』の物語メモがある。こうした経典や古文献に載る説話伝承をもとに、中世的な垂迹縁起(すいじゃくえんぎ)の物語体裁をとるようになったと考えられる。熊野信仰の教宣に一役買った物語で、熊野の修験山伏(しゅげんやまぶし)や熊野比丘尼(びくに)が管理し伝播(でんぱ)させたものである。
天竺(てんじく)の摩訶陀(まかだ)国の善財王には1000人の后(きさき)がいたが、そのうちの1人の五衰殿(ごすいでん)は王から寵愛(ちょうあい)されたため、他の后たちに妬(ねた)まれる。懐妊の身の五衰殿は山中に棄(す)てられ、そこで男児を産み、そのまま果てる。王子は動物たちに守られて生き延び、やがて、麓(ふもと)に住む聖人によって尋ね出され養育される。7歳のとき、聖人の計らいで大王に会い、それまでのできごとを打ち明ける。王子は父王の病悩を治し、秘法でよみがえった母后とともに飛車(ひしゃ)に乗って日本に渡った。安住の地を求めてさすらったのち、紀伊(き)の国の音無川(おとなしがわ)のあたりに定着し、熊野の神々となって顕(あらわ)れた、という物語。総じて女人救済の物語といえよう。
[徳田和夫]
『市古貞次校注『日本古典文学大系38 御伽草子』(1958・岩波書店)』▽『『中世・宗教芸文の研究1』(『筑土鈴寛著作集3』1976・せりか書房)』▽『松本隆信「中世における本地物の研究 1」(『斯道文庫論集9』所収・1971・慶応義塾大学)』