片平村(読み)かたひらむら

日本歴史地名大系 「片平村」の解説

片平村
かたひらむら

[現在地名]郡山市片平町・うねめまち

逢瀬川中流域の沖積原と丘陵に立地。東は富田とみた村。郡山から猪苗代湖岸へ至る道が通る。古くはなか岩倉いわくら前田川まえたがわの三ヵ村からなっていたと伝える(相生集)。字高森の出磬たかもりのでけい(二九二・七メートル)の西方に縄文時代の土器・石鏃などが出土した高森遺跡、同山北西の菱池ひしいけに縄文時代の中村館なかむらだて遺跡、南西斜面に八世紀から九世紀初め頃の登窯跡四基・住居跡二基・工房跡三基が発掘された出磬山遺跡がある。

応永一一年(一四〇四)頃のものと推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)にみえる「取平 沙弥慈本」の取平は片平に比定される。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)の中郷のうちに「中村 五丁五段」、北郷のうちに「岩倉 十丁」「前田河 五丁五段」とみえる。字中村なかむらに嘉元四年(一三〇六)二月九日銘・応安三年(一三七〇)五月日銘の二基の不動堂供養塔、谷地中やじなかに文保二年(一三一八)八月晦日銘の供養塔がある。

片平村
かたひらむら

[現在地名]大牟田市片平町かたひらまち右京町うきようまち延命寺町えんめいじまち正山町しようざんまち昭和町しようわまち浄真町じようしんまち田端町たばたまち長田町ながたまち八江町やつえまち若宮町わかみやまち黄金町こがねまち一―二丁目

馬籠まごめ村の西にある。北は南大牟田村諏訪すわ川右岸の沖積地と背後の丘陵地帯よりなる。現在延命公園のある丘陵は片平山と通称した。文禄四年(一五九五)の高橋統増(立花直次)に宛てられた知行方目録(三池立花家文書)に「かたひら」とあり、高五〇一石余。元和七年(一六二一)三池藩領となる。同年の郡村帳(同文書)では片平村とあり、玄蕃高四八六石余、小物成は野手米一石余・樹木年貢米三斗余。文化三年(一八〇六)以降幕府領(のち柳川藩預)。諏訪川下流右岸は近世初期まで水利に恵まれず、旱魃地帯であったが、寛文四年(一六六四)早鐘はやがね山におお(早鐘池)が造られてから収穫が安定するようになったという(「平塚家旧聞記」旧版大牟田市史)

片平村
かたひらむら

[現在地名]麻生区片平・片平一―五丁目・白鳥しらとり一―三丁目・栗平くりひら一―二丁目

都筑つづき郡に属し、中央を西から東へ片平川が流れ、東は五力田ごりきだ村・古沢ふるさわ村、西は栗木くりき村、多摩郡広袴ひろばかま村・真光寺しんこうじ(現東京都町田市)、北は栗木村に接する。寺台てらだいあかせき・天神てんじんかいと・かないはらなどの小字がある。小田原衆所領役帳に大熊修理亮「廿八貫九百文 小机片平郷」とみえる。

片平村
かたひらむら

[現在地名]小川町片平

東戸田ひがしとだ村の南にあり、集落は那珂川右岸段丘面から塩那えんな丘陵東斜面に発達。東は吉田よしだ村など。近世を通じ烏山藩領であったと思われ、畑方年貢米納の村。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)片平後沢かたひらうしろざわとみえ、高四八石余。慶安郷帳では田高三三〇石余・畑高二二〇石余、ほかに高四八石余(田高二九石余・畑高一九石余)の下後沢村が載り、後沢はいわ川水系に属する谷間、西部地域のことと思われる。

片平村
かたひらむら

[現在地名]矢部町城平じようひら

下大川しもおおかわ村・はま村の北にあり、東は入佐いるさ村に接する。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「かたひら」とあり、貫高は六貫五〇〇文。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に属し、のち旧に復した。

片平村
かたひらむら

[現在地名]山添村大字片平

名張なばり川西部、鵜山うやま村の対岸に位置する。近世の文書や道標などには、カタヘラとも記す。近世初期、はた郷の内。慶長・元和・寛永の各郷帳では旗本庄田氏領四六六・二一八石の「畠之村内」または「畑村」のなかに含められ、片平村の名は元禄郷帳に初めて現れる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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