牢ないし牢獄は、西洋、日本、中国のいずれでも、もともと未決囚を拘禁したり死刑執行前に犯人が逃亡するのを防ぐために拘禁しておく施設であった。近世になると西洋では投獄自体を刑罰とする考え方が現れ、牢は刑の執行の場所となった。今日のような、懲役刑や禁錮刑に処せられた者に対する刑の執行の場所(監獄・刑務所)が設置されるようになったのは、19世紀に入ってからである。
[佐藤篤士]
前近代のヨーロッパの刑罰には、死刑、追放刑、鉱山労働、漕船刑、笞(ち)刑、財産刑などがあったが、牢への拘禁は刑罰ではないとするギリシア・ローマの思想があった。したがって牢は、一般に審理中の被告の逃亡を防いだり、ソクラテスの場合のように死刑を宣告された者が刑の執行までに逃亡するのを防ぐために用いられた。
中世には、国王や共和国ばかりでなく教会や領主も牢をもっていたが、それらの牢は拷問室といくつかの独房からなり、窓のない部屋もあった。食事も悪く、空気がよどんでネズミや虫がはいずり回り疫病の発生源となった。牢は請負制で運用され、投獄された者は入牢中の費用を支払わなければならず、裁判の結果無罪となっても、費用を支払わなければ牢から出してもらえなかった。牢役人には給与が支払われなかったので、牢役人は金銭で容易に買収された。投獄された者には政治犯が多く、ロンドン塔やパリのバスチーユ監獄、ローマのサンタンジェロ、「ため息の橋」で知られるベネチアの監獄などが有名である。
中世末期に浮浪者や乞食(こじき)などが多数発生し、絶対君主が彼らを矯正院に収容して保護救済し、更生を図ったが、これは彼らの労働力に着目したものであって、しだいに一般犯罪者も矯正院に収容されるようになったため、矯正院も監獄と区別がつかなくなった。やがて投獄自体を刑罰とする懲役刑、禁錮刑が現れるに至った。
18世紀後半になると近代合理主義思想のもとで監獄の改革運動が現れた。イギリスのJ・ハワードは、囚人からの謝礼を廃止して牢役人への給与の支給、獄内の衛生状態の改善を提唱し、この思想がアメリカに大きな影響を与え、クェーカー教徒の努力で1829年ペンシルベニア懲治監がつくられた。これは、囚人を社会から遮断し、囚人相互の交談をいっさい禁止して独房で労働させ、宗教によって更生を図ろうとするものであった。やがて、これに対して、昼間は囚人が共同労働を行い、夜は独房に入るニューヨーク州のオーバン監獄がつくられ、アメリカの多くの州でこの制度が採用された。ペンシルベニアの制度はヨーロッパ諸国で採用された。
今日、囚人を監獄に拘禁することの非経済性が指摘され、また囚人の精神状態に悪影響を及ぼすケースも多いため、ヨーロッパでは刑の軽重によって監獄外での保護監察や外部への通勤などの方法も用いられるようになった。
[佐藤篤士]
古くは夏台・羑里(ゆうり)など、周代には圜土(えんど)・囹圄(れいご)と称したと伝えられるが、漢代以降は獄の語が用いられた。明(みん)代には監の呼称も始まり、清(しん)代には獄のほか、多く監獄と連称され、また、牢・牢獄の語も使われた。獄制には時代による変遷はあるが、清代でいえば、監獄は中央ならびに地方官庁に付属して設けられ、中央では刑部の提牢庁の管轄に属した。監獄は男監と女監とに分けられた。男監はまた内監・外監に分けられ、重罪犯か否かによって収容を区別するたてまえであった。房舎はすべて雑居制であった。囚人は犯罪の種類・軽重にしたがって、鎖具を施して拘禁するか否かに分けられ、老幼年者や心身障害者は鎖具を免れた。囚人には衣糧の支給や医薬の施療が行われ、冬季・夏季には、寒暑をしのぐために煖床(だんしょう)・涼漿(りょうしょう)(冷たい飲み物)を備えるべきことをも定めていた。しかし、法制(律例・会典などの規定)は整備されていたが、とくに地方では、監獄の施設はしばしば狭隘(きょうあい)・不潔で、獄吏の凌虐(りょうぎゃく)もまれではなく、長期間の拘禁による獄中の死亡も少なくはなかったといわれている。
以上の獄・監獄は、未決囚ならびに刑の執行を待つ既決囚を収容するための施設であり、懲役刑を執行するための刑務所ではなかった。それは、五刑のなかの労役刑(徒(と)・流(りゅう))が、囚人を獄に収容して労役させるものではなかったからである。中国に近代的意味の刑務所が初めて現れたのは、清末の20世紀初頭で、直接には日本に範をとったものであった。
[中村茂夫]
日本の律令(りつりょう)の獄の制は唐制に倣ったもので、囚獄司に左獄・右獄が付属し、未決の被疑者と既決の囚人(徒刑)を収容した。杖(じょう)罪以下の犯人および被疑者には戒具を加えないが、徒刑以上の者には戒具を加える。獄には男房と女房とがあり、男女は各別に収容された。獄中における食糧は囚禁(しゅごん)者の自弁であった。中世に入っても獄はあったが、牢とよぶほうが普通になった。
牢屋として有名なのは江戸小伝馬(こでんま)町の牢である。言い伝えによると、天正(てんしょう)年間(1573~92)に常盤(ときわ)橋外に牢屋ができて、それが慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に小伝馬町に移されたとされている。牢屋敷は三方を土手に囲まれ、町家のなかに位置し、周囲には高さ7尺8寸(約2メートル36センチ)の練塀(ねりべい)を巡らし、練塀の外側に堀がある。表門をくぐると、左手に塀があって裏門に連なり、この塀の向こう側に監房があり、こちら側には事務所や役人の住宅がある。塀の向こう側には東牢と西牢とが連なっている。東牢と西牢との中間に監視所ともいうべき当番所があり、これを中心にして、東西とも口揚屋(あがりや)、奥揚屋、大牢(たいろう)、二間(にけん)牢という順に並んでいる。東西大牢および二間牢はともに外側は格子で、その中にさらに内格子で囲まれているところが牢房である。東西大牢はそれぞれ5間に3間すなわち30畳の広さ、東西二間牢はそれぞれ4間に3間すなわち24畳の広さである。大牢と二間牢とはともに庶民を収容する。当時の牢はすべて雑居牢であるから、初めは無宿者すなわち無籍者も有宿者も同居させていたが、無宿者はとくに柄(がら)が悪く、有宿者と雑居させるのは有害なので、1755年(宝暦5)に東牢には有宿者、西牢には無宿者を入れることにした。その後、東西両牢とも大牢には有宿者、二間牢には無宿者を入れることになり、1788年(天明8)からは、大牢・二間牢の別はそのままにして、西牢には火付盗賊改(あらため)掛の囚人を入れることにした。揚屋には、御目見(おめみえ)以下の直参(じきさん)、陪臣(ばいしん)、僧侶(そうりょ)、医師、山伏などが収容される。口揚屋は2間半に3間で15畳、奥揚屋は3間に3間で18畳あり、畳敷きである。揚屋のうち、西の口揚屋は女牢といって、揚座敷に入れる者を除き、武士・町人の別なく、女囚を収容した。東の口揚屋は遠島(えんとう)部屋といい、遠島刑に処せられて、出船するまでの者を収容する。1683年(天和3)に揚座敷ができた。揚座敷には御目見以上の直参およびこれに準ずべき僧正(そうじょう)、院家、紫衣(しえ)そのほか重き僧侶、神主(かんぬし)らを収容する。牢屋敷の裏門に近い所にある独立の獄舎であるが、身分の高い者を収容するので設備がよくなっている。1775年(安永4)には百姓牢ができた。百姓牢は、百姓が牢なれした大牢・二間牢の囚人にいじめられたり、彼らにかぶれて悪化するのを防ぐために設けられたのであるから、両者から離れて、揚座敷の先に建てられた。
小伝馬町の牢屋は町奉行(まちぶぎょう)の支配に属し、町奉行の下にあって牢屋を管理するのは囚獄(俗に牢屋奉行という)である。囚獄の職は石出(いしで)氏が世襲し、代々石出帯刀(たてわき)の名を継ぎ、牢屋敷内の拝領屋敷に住んでいた。囚獄の下に同心と下男がいて、さらに各監房には名主(なぬし)その他の自主的な役人が置かれていたが、彼らは当時、牢内役人とか役人囚人とかよばれた。幕府の認めた牢内役人は、名主1人、添役1人(病人そのほか労(いたわ)りの手当てをする)、角(すみ)役1人(戸前口にいて出入りに気をつける)、二番役1人(仕事は角役に同じ)である。文政(ぶんせい)(1818~30)ごろには12人の牢内役人を認めているが、公認役人のほかに、穴の隠居、大隠居、隅(すみ)の隠居などの役人がいた。牢内役人のなかで、名主は見張畳と称して、畳を10枚も重ねた上に座していた。それ以下の役人は1人ないし3、4人で畳1枚を使用したが、平の囚人に至っては、少なくとも6人で1枚を用い、1畳を18人に用いさせることもありえたという。名主以下の牢内役人は牢内の秩序維持のために置かれたのであり、牢法に背く者があれば、仕打ちと称して折檻(せっかん)することが行われたが、実際には必要以上の折檻が行われ、名主の意にかなわない者をひそかに殺すこともあった。また入牢者はツルと称する金子(きんす)を持参しないとひどいめにあった。
牢内では、新入りの者に娑婆(しゃば)でしたことを尋ねる新入りのシャクリ以下の決まりの文言がいくつかあった。重病の囚人は非人頭(ひにんがしら)の管理する浅草もしくは品川の溜(ため)に収容された。牢を抜け出た者は、本罪相当より重く罰した。出火があると、囚人は縄をかけて10人ずつ太縄を帯に通してつなぎ合わせ、牢庭に出しておく。風並みが悪くて牢屋敷が危うくなれば、囚人を両町奉行所のいずれか、または本所回向院(えこういん)に連れていくが、避難の準備の余裕のないときは、切放(きりはなし)すなわち囚人の解放が行われる。切放後3日のうちに、前記の3か所のいずれかの場所に来れば、その囚人の刑を一等減じた。逃亡して帰らない者を1718年(享保3)には死罪に処することに定めたが、御定書(おさだめがき)ではとくに刑を加重しないことにした。切放の場合、大部分の者は立ち帰ったという。
[石井良助]
『石井良助著『江戸の刑罰』(中公新書)』▽『柳本正春著『英米における犯罪者処遇』(1972・成文堂)』▽『西原春夫他編『現代刑罰法大系』全7巻(1981・日本評論社)』▽『滋賀秀三著『刑罰の歴史――東洋』(荘子邦雄・大塚仁・平松義郎編『刑罰の理論と現実』所収・1972・岩波書店)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…近代以降の牢屋すなわち監獄(刑務所)とは,懲役刑,禁錮刑を宣告された犯罪者が身体を拘束される場所を意味するが,その目的や機能には(1)犯罪者の自由を剝奪するという社会的制裁,(2)有益な労働を行わせて犯罪者の社会復帰に備えさせるという矯正の役割,(3)社会秩序を保つため社会の危険人物を隔離する役割,などがある。しかし,牢屋は人間の歴史とともに存在しており,その機能および社会的存在理由は,時代や諸地域の社会の進展とともに大きく変化し,当初から以上のようなものではなかった。…
※「牢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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