室町後期に成立し,江戸時代まで続いて制作された風俗画の一種。普通六曲屛風一双の画面からなり,京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の名所や旧跡あるいは四季折々の行事などを,一望のもとに描く。洛中洛外画の文献上の初見は,室町時代の《実隆公記》で,永正3年(1506)12月22日の条には,越前朝倉氏の注文で絵所預(えどころあずかり)土佐光信が,〈京中〉を描いた屛風を作ったとある。洛中洛外図はそれ以前に盛行した四季絵,月次(つきなみ)絵,名所絵を総合化して成立したものだが,それらと相違するのは,〈時〉の視点を導入したことである。つまり洛中洛外図を観察することで,限りなく変転してゆく京都の世相をもうかがい知ることができ,四季絵や月次絵から近世初期風俗画への橋わたしの役を,洛中洛外図が担ったといえる。現存最古の作例である旧町田家本には,将軍足利義晴の〈柳の御所〉と管領細川高国の邸が大きく描かれ,ほぼ1520年代後半の景観を示すのに対し,東京国立博物館蔵の模本(原本は未出現)では,将軍邸は1539年(天文8)造営の〈花の御所〉として描かれ,管領細川晴元邸,典厩(てんきゆう)細川晴賢邸が見えることから,ほぼ1540年ころの景観と知られる。さらに織田信長が上杉謙信に贈呈した狩野永徳筆の上杉家本は,乱世に活躍した武将の邸のほか,管領細川氏綱邸がひときわ豪壮に描かれているのが印象深い。この屛風の景観は1550年代から60年代初めころと想定されるが,東京国立博物館模本にあった畠山邸がすでになく遊郭と化しているなど,乱世の京都を象徴する光景である。以上3例は〈初期洛中洛外図〉と呼ぶことができるが,〈時〉を反映して以後の洛中洛外図は新しい展開を示す。
新たな表現は,時の最高権力を城郭に象徴するという方法で,その原型となったのは,信長が永徳に描かせてバチカンに贈った《安土山屛風》(片隻に安土城,片隻に安土市街が描かれた。未発見)であったと考えられる。秀吉の建築的モニュメントを描いた《聚楽第図屛風》(三井家)がその影響下に成立したことは明らかである。慶長期(1596-1615)になると,徳川氏の威光を代弁するものとして二条城が登場するが,岡山美術館本,勝興寺本などでは,左隻の二条城に対して,右隻には豊臣の余光を示すかのように方広寺大仏殿の威容を配する。その代表的作例が舟木本《洛中洛外図》(東京国立博物館)であるが,ここにも世相の動向を映す鏡としての洛中洛外図の意義を見いだすことができる。この後,徳川政権が強固となり,京都の政治的重要性が薄れてゆくに従って,洛中洛外図の絵画的生命は弱まり,寛永年間(1624-44)から幕末まで,定型化して図様に著しい変化は見られない。洛中洛外図に,都の活況を示すためつぶさに描かれたそれぞれの場面から,〈名所遊楽図〉〈観桜図〉〈祇園祭礼図〉〈賀茂競馬図〉〈歌舞伎図〉〈遊女図〉といった個別の主題画が生み出されたことの美術史的意義は大きい。
執筆者:狩野 博幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本画の画題の一つ。京都の市中(洛中)と郊外(洛外)のありさまを描いたもので、一種の都市風俗画。室町末期から江戸初期にかけて盛行した。画巻形式や画帖(がじょう)形式のものもあったが、大多数は六曲一双の屏風(びょうぶ)形式をとり、右隻(うせき)にはおもに鴨川(かもがわ)以東の東山一帯の景観を背景に洛中の一部を、左隻には北山から西山を背景に同じく洛中の一部をあてる。洛中洛外に点在する著名な神社、仏閣、諸名所が網羅され、さらに四季ないしは12か月にわたる諸景物や祇園(ぎおん)祭礼、賀茂競馬(かものくらべうま)などといった祭礼行事が、そこに集い遊楽する人々の姿とともに事細かに写し出される。そこには大和(やまと)絵の画題であった四季絵や名所絵の伝統が豊かに流れていたが、それらと洛中洛外図とが決定的に異なる点は、前者が京洛の諸様相を和歌や古典文学などに触発された情趣的な景物として扱っているのに対し、洛中洛外図では、現在「かくある」姿として都の全体がとらえられている点にある。それゆえその景観構成には、各時代の都の景気や政治権力の所在、動向などが明瞭(めいりょう)に反映された内容となっている。
洛中洛外図については、1506年(永正3)土佐光信(とさみつのぶ)が「京中」を屏風に描いたことが『実隆公記(さねたかこうき)』の記事で知られ、ほぼこのころまでには画題として成立していたとみられるが、残念ながらそこまでさかのぼる遺品はない。現存最古の作品は町田家旧蔵(現国立歴史民俗博物館)の『洛中洛外図屏風』で、1530年代の景観を示す。これより約30年後の京都を描き、織田信長が上杉謙信(けんしん)に贈ったと伝えられる上杉家本(山形・上杉氏蔵)を加えて初期洛中洛外図とよぶ。ともに公方(くぼう)(足利(あしかが)将軍家)や典厩(てんきゅう)、細川(管領(かんれい))の一連の殿舎が描き込まれ、室町末期の都の景気を写し出している。ついで豊臣(とよとみ)秀吉の時代になると、聚楽第(じゅらくだい)と方広寺とが景観の中核となり(東京・三井文庫の六曲一隻『聚楽第図屏風』)、さらにこれが徳川政権への交代期になると、左隻に二条城、右隻に方広寺を大きく描き、不安定な政情を敏感に反映した画面となる(東京国立博物館の『洛中洛外図屏風』)。そして徳川幕府が安定に向かう元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615~44)以降は、左隻の中心に二条城を置き、右隻は祇園会(え)と内裏(だいり)とを大きく描くようになり、以後の洛中洛外図はすべてこの景観構成を踏襲する。しかし画題としての生命力はここまでで、その後おびただしく制作されたが類型化が著しく、新たな展開をみせずに終わった。遺品は前記のほか、岡山・林原美術館本、富山・勝興寺本、東京・サントリー美術館本などまことに多い。
[榊原 悟]
『石田尚豊・内藤昌他監修『洛中洛外図大観』(1987・小学館)』▽『武田恒夫編『日本の美術20 近世初期風俗画』(1967・至文堂)』▽『辻惟雄編『日本の美術121 洛中洛外図』(1976・至文堂)』
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…これに対して《職人尽図屛風》(川越市喜多院)は各扇2図ずつ計24図の六曲一双の貼込屛風で,狩野吉信(1552‐1640)の筆になる。これらは職人生活の実態を,店頭のみならず町屋を背景に描いており,《洛中洛外図屛風》の一こまを切り取った観がある。細密に描かれた《洛中洛外図屛風》の人物像を分析すると,《三十二番》《七十一番》の職人歌合絵巻に描かれた職人が,驚くほど多数登場し,歌合絵巻のきずなを脱して屛風に踊り出た,のびのびとした職人の生態が見いだされる。…
※「洛中洛外図」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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