江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目に相当する。都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。人形浄瑠璃2座は慶応年間(1865-68)にこの地を出たが,1872年守(森)田座が新富町に,84年猿若座(中村座)が鳥越町に,92年市村座が下谷二長町に移転,興行街としての使命を終えた。幕末から近代へという政治的・社会的変動の中における劇場街として,〈猿若町時代〉と呼ばれる一時期を形成し,演劇史上に重要な位置を占めている。
執筆者:近藤 瑞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
… 三社権現(三社さま)の三社祭,鷲神社(お酉さま)の酉の市,浅草寺の四万六千日(ほおずき市),歳の市(羽子板市)などの開催日には群衆が山をなし,これらの祭りや行事は現在までひきつがれてにぎわいをみせている。1842年(天保13)日本橋,京橋辺の芝居小屋が聖天町西側に集められ,歌舞伎,操人形の興行街猿若町が誕生し,その繁栄に拍車をかけた。また慶長期(1596‐1615)以降,主として郭内から寺院が相次いで移ったため,浅草寺の周辺は寺町としても発達した。…
…中村座は堺町,市村座は葺屋町(ふきやちよう),森田座は木挽町(こびきちよう)において興行したが,天保改革によって,1841年(天保12)から42年にかけて浅草の聖天町へ集められた。その地を猿若町と改名し,以後明治まで興行が行われた。中村座は中村勘三郎,森田座は森田勘弥,市村座は市村羽(宇)左衛門が基本的に代々座元として興行権を持っていたが,この三座に経済的な支障が生じ興行を継続できない事態になったおりは,控櫓(仮櫓)によって興行が行われた。…
※「猿若町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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