守田座(読み)もりたざ

改訂新版 世界大百科事典 「守田座」の意味・わかりやすい解説

守(森)田座 (もりたざ)

江戸時代から明治初年にかけての歌舞伎劇場江戸三座の一つ。1660年(万治3)森田太郎兵衛によって,木挽町創設されたが,61年(寛文1)太郎兵衛は引退し,坂東又九郎次男又七を養子として森田勘弥を名のらせ太夫元にし,又九郎に座元を譲ったという。しかし創設の経過については明らかでない部分が多い。68年に河原崎座合併興行し,その後坂東又九郎,河原崎権之助と三名代で興行した年もあり,寛文年間(1661-73)は安定した形態ではない。元禄期(1688-1704)には《当世小国かぶき》(1699),《成田山分身不動》(1703)などを上演したが,1725年(享保10)ごろより借財に悩み,34年より休座,44年(延享1)に再開するまで河原崎座がかわって興行した。以降,1789-98年(寛政1-10),1800-08年(寛政12-文化5),1815-17年(文化12-14),1819-22年(文政2-5),1823-33年(文政6-天保4),1837-56年(天保8-安政3)休座し,河原崎座が代行した。休座中の1843年(天保14),天保改革により木挽町から猿若町劇場が移転しており,森田座が猿若町で興行を開始するのは,56年(安政3)5月からである。58年に座名の〈森〉の字を〈守〉と改めた。72年12世守田勘弥は新機構を採り入れた大規模な劇場を新富町建設,開場した。歌舞伎を新時代の社会に位置付けようとする勘弥の意欲によってなされたことであったが,経済的な困窮は解消せず,75年には新富座と改称され,守田座という名称はここで消える。
守(森)田勘弥
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「守田座」の意味・わかりやすい解説

守田座
もりたざ

歌舞伎劇場。初め「森田座」。明暦3 (1657) 年の大火から3年後の万治3 (60) 年,森田太郎兵衛によって江戸木挽町5丁目に創建された。以後江戸の四大劇場,山村座廃絶後は江戸三座の一つ。寛文1 (61) 年太郎兵衛は養子をとり,森田勘弥と名のらせ座元とした。同3年河原崎座不振のため森田座に合併。享保 19 (1734) 年財政困難のため休座を出願。このため河原崎座が,これに代る「控櫓 (ひかえやぐら) 」の興行制度を生んだ。この休座は延享1 (44) 年まで続いたが,以後数回休座した。天保 13 (1842) 年の改革で,浅草聖天町に移転を命じられ,河原崎座は猿若町3丁目に代地を定められた。おりしも控櫓興行中のことで,森田座としての興行再開は安政3 (56) 年5月。同年7月「守田座」と改称。明治5 (72) 年 12世座元勘弥は,劇場街の制限改廃を機に新富町に新劇場を設立。 1875年「新富座」と改称した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「守田座」の解説

守田座
もりたざ

江戸の歌舞伎劇場。1725年(享保10)の書上(かきあげ)によると,1660年(万治3)森田太郎兵衛が木挽(こびき)町に創設,のち経営に参画していた坂東又九郎の次男を養子として森田勘弥と改めたと伝える。「松平大和守日記」では1669年(寛文9)に勘弥座の記録が初出。元禄期以後森田勘弥名義で興行権を継承。1735年(享保20)以降たびたび休座し,河原崎座がかわった。1856年(安政3)4世坂東三津五郎(11世森田勘弥)が森田座を再興。58年7月に座名の「森」を改め守田座と称した。72年(明治5)12世守田勘弥が新富町へ移転,75年に新富座と改称,95年守田家と縁が切れた。

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百科事典マイペディア 「守田座」の意味・わかりやすい解説

守(森)田座【もりたざ】

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。1660年森田太郎兵衛が木挽町に創設。座元は代々の守(森)田勘弥。1856年猿若町に移り,1858年座名の〈森〉を〈守〉と改称。12世勘弥が1872年新富町へ移し,1875年新富座と改称。建築,観客制度に洋風を取り入れた新式の大劇場として栄えたが,1923年関東大震災で焼失。

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世界大百科事典(旧版)内の守田座の言及

【江戸三座】より

…江戸で公許された中村座市村座,森田座(のち守田座)の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが,1714年(正徳4),江島生島事件によって山村座が廃絶,以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。…

【歌舞伎】より

…町奉行遠山左衛門尉の進言によって取りつぶしはまぬかれたが,江戸三座は浅草の猿若町に強制移転させられた。以後,72年(明治5)に守田座が新富町へ移転するまでの30年間,いわゆる〈猿若町時代〉がつづいた。 猿若町時代の歌舞伎を代表するのが河竹黙阿弥である。…

【劇場】より


[劇場の常設化]
 寛永期には江戸中橋南地のほかに京都四条,大坂道頓堀にも芝居町が形成され,ある程度の様式をそなえた劇場がつくられた。江戸においては中村座を嚆矢(こうし)とし,ついで1633年1月の都伝内による堺町の都座,翌年3月村山又三郎による堺町の村山座(後の市村座),42年3月山村小兵衛による木挽町5丁目の山村座,しばらくおくれて56年(明暦2)河原崎権之助による木挽町5丁目の河原崎座,60年(万治3)4月森田太郎兵衛による木挽町5丁目の森田座(後の守田座)の創業というように,次々に歌舞伎の常設劇場が建設されていった。いずれも舞台間口3間を定式とし,土間席は野天のままで,わずかに舞台部分と桟敷席に屋根が架してあった。…

【興行】より

…京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。…

【寿狂言】より

…江戸の劇場の中村座市村座,森田座(守田座)に伝承された祝言儀礼的狂言のこと。家狂言ともいう。…

【猿若町】より

…その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。人形浄瑠璃2座は慶応年間(1865‐68)にこの地を出たが,1872年守(森)田座が新富町に,84年猿若座(中村座)が鳥越町に,92年市村座が下谷二長町に移転,興行街としての使命を終えた。幕末から近代へという政治的・社会的変動の中における劇場街として,〈猿若町時代〉と呼ばれる一時期を形成し,演劇史上に重要な位置を占めている。…

【新富座】より

…東京にあった劇場。1872年(明治5)に,猿若町にあった守田座が京橋区新富町6‐9に移転,75年に新富座と改称した。76年に類焼,翌年仮小屋で開場,78年6月本建築がなり,このとき外国公使,大臣など朝野の名士を招待し,役者は燕尾服,座方関係者はフロック・コートで挨拶し話題になった。…

【守田勘弥(森田勘弥)】より

…守(森)田座の座元,太夫元,歌舞伎俳優。10世まで〈森田〉の字を用いた。…

※「守田座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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