結城座(読み)ユウキザ

デジタル大辞泉 「結城座」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐ざ〔ゆふき‐〕【結城座】

人形浄瑠璃劇場。貞享・元禄(1684~1704)ごろ、説経節太夫の初世結城孫三郎江戸葺屋ふきや町に創設したという。天保の改革後、猿若町に移転し、幕末まで存続
糸操り人形一座。明治中期、9世結城孫三郎が創始。現在、東京都小金井市を本拠として活動している。

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精選版 日本国語大辞典 「結城座」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐ざ ゆふき‥【結城座】

江戸時代、江戸にあった人形浄瑠璃劇場。説経節の太夫初世結城孫三郎が元祿一六八八‐一七〇四)の初め頃江戸葺屋町の市村座の向かい側に開設したと伝えられる。天保の改革以来、猿若町、両国米沢町に移転して幕末まで継続。第二次大戦後、一〇世結城孫三郎が東京都武蔵野市に再興した。

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改訂新版 世界大百科事典 「結城座」の意味・わかりやすい解説

結城座 (ゆうきざ)

江戸の人形浄瑠璃の劇場名。説経節の太夫初世結城孫三郎が江戸葺屋町に創設した芝居小屋であるが,その創設年代は明らかでない。現存する結城孫三郎の最古正本《越前国永平寺開山記》(1689)や,地誌の《江戸図鑑綱目》に見える江戸孫三郎が結城孫三郎と同一人物であるらしいことから判断して,元禄(1688-1704)初年の創設と考えるべきであろう。以後木挽町に移転するなどしながら,説経節が衰えると義太夫節上演の芝居小屋として存続した。1842年(天保13)から52年(嘉永5)まで猿若町2丁目に,66年(慶応2)には両国米沢町に移転し,人形浄瑠璃の芝居小屋として,ときには素浄瑠璃や子供芝居などを上演しながら幕末までつづいた。第2次世界大戦後,10世結城孫三郎が東京都武蔵野市吉祥寺本町に再興した結城座は,糸操(あやつり)の人形芝居を演ずるもので,古典物のほかにも新作を手がけて今日に及んでいる。
結城孫三郎
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「結城座」の意味・わかりやすい解説

結城座
ゆうきざ

江戸時代の糸操り人形芝居の伝統を継承する劇団。「結城座」は,代々の結城孫三郎を座元とする人形芝居の劇場名であったが,9世孫三郎が 1900年に一座を復興,従来の糸操りを改革して人気を得た。その後 10,11世孫三郎らが,浄瑠璃による古典と並んで新作や前衛的作品も手がけ,福田善之,佐藤信らの演出で人形と俳優が共演する独自の領域を開拓した。代表作は唐十郎作『少女仮面』,福田善之作『お花ゆめ地獄』,『マクベス』など。海外公演も多い。

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世界大百科事典(旧版)内の結城座の言及

【猿若町】より

…都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。人形浄瑠璃2座は慶応年間(1865‐68)にこの地を出たが,1872年守(森)田座が新富町に,84年猿若座(中村座)が鳥越町に,92年市村座が下谷二長町に移転,興行街としての使命を終えた。…

【結城孫三郎】より

…現在まで11代を数えるが,その伝系については不明な点が多い。初世は17世紀後半から18世紀前半にかけて江戸の説経節の太夫として活躍,17世紀後半に江戸の葺屋町で説経節の芝居小屋結城座を創設した。《越前国永平寺開山記》《法蔵比丘》などの正本を残している。…

※「結城座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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