江戸の歌舞伎(かぶき)劇場のうち、興行権の官許を得た三つの座、中村座、市村座、森田座のこと。中村座は1624年(寛永1)初世中村(猿若(さるわか))勘三郎が猿若座の名で中橋南地(なかはしなんち)(現在の中央区京橋)に開場したのが始まりである。1632年禰宜(ねぎ)町(日本橋堀留町)に移転、1651年(慶安4)から堺町(さかいちょう)(日本橋人形町)に移り、代々の勘三郎が座元を務めた。市村座は1634年村山又三郎(またさぶろう)が堺町(のちに葺屋(ふきや)町)に創設した村山座が前身で、その後市村家に座元が譲られ、代々の市村羽左衛門(うざえもん)が経営にあたった。森田座は1660年(万治3)森田太郎兵衛が木挽町(こびきちょう)(東銀座)に開場、翌年(寛文1)から森田勘弥(かんや)に座元を譲り、以後代々の勘弥が興行を続けた。
初期には、ほかに都(みやこ)座、山村座、玉川座、桐(きり)座、河原崎(かわらさき)座などが興亡のすえ、承応(じょうおう)・明暦(めいれき)(1652~58)のころには中村、市村、森田、山村の四座だけが興行権を与えられ「大芝居(おおしばい)」と称した。その後1714年(正徳4)山村座の俳優生島新五郎(いくしましんごろう)と奥女中絵島(えじま)の事件により同座が廃絶を命ぜられて以後は、中村、市村、森田の三座のみが官許の劇場になり、「江戸三座」とよばれるようになった。なお、三座に支障のあるときは、かわりの劇場が興行権を代行する「控櫓(ひかえやぐら)」の制度が認められ、中村座には都座、市村座には桐座、森田座には河原崎座がそれぞれ控櫓と定められた。
1841年(天保12)中村、市村両座の火災を機に、水野忠邦(ただくに)の緊縮政策により、翌年から翌々年にかけ三座は浅草猿若町に移転した。明治になると三座の制度は廃止された。中村座は1875年(明治8)から中村家を離れ座名もしばしば変わり、84年には浅草新鳥越(しんとりごえ)に移り、92年から鳥越座と称したが、翌年1月類焼して絶えた。市村座も市村家の手から離れ、1892年には下谷二長町(したやにちょうまち)に移り、1908年(明治41)から田村成義(なりよし)の経営による若手歌舞伎で人気をよんだが、大正後期以後は衰え、1932年(昭和7)5月に焼失した。森田座は1856年(安政3)守田座と改名した。明治になると12世守田勘弥が都心進出を企て1872年新富町(しんとみちょう)に移し、75年には新富座と改称、翌年類焼したのを機に近代的機構を加えた大劇場として77年4月に再開。9世市川団十郎、5世尾上(おのえ)菊五郎らの名優を擁し、明治歌舞伎の最盛期を生んだが、1909年(明治42)には松竹合名社の手に移り、23年(大正12)の関東大震災で焼失、以後再建されなかった。
[松井俊諭]
江戸で公許された中村座,市村座,森田座(のち守田座)の三芝居。元禄期(1688-1704)には山村座を含め四座存在したが,1714年(正徳4),江島生島事件によって山村座が廃絶,以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。中村座は堺町,市村座は葺屋町(ふきやちよう),森田座は木挽町(こびきちよう)において興行したが,天保改革によって,1841年(天保12)から42年にかけて浅草の聖天町へ集められた。その地を猿若町と改名し,以後明治まで興行が行われた。中村座は中村勘三郎,森田座は森田勘弥,市村座は市村羽(宇)左衛門が基本的に代々座元として興行権を持っていたが,この三座に経済的な支障が生じ興行を継続できない事態になったおりは,控櫓(仮櫓)によって興行が行われた。1735年(享保20),森田座にかわり河原崎座が興行したのがはじめで,中村座には都座,市村座には桐座が控櫓として存在した。
執筆者:近藤 瑞男
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江戸で幕府から興行を許された歌舞伎劇場。寛文期までは多くの劇場があったが,延宝~元禄期には中村・市村・森田・山村の四座に限定され,1714年(正徳4)の江島(えじま)・生島(いくしま)事件で山村座が廃絶,以後三座に限られた。三座が休座した場合,中村座には都(みやこ)座,市村座には桐・都・玉川の各座,森田座には河原崎座がかわって興行した。興行地は1661年(寛文元)までには中村座は堺町,市村座は葺屋(ふきや)町,森田座は木挽(こびき)町に定められたが,1842年(天保13)に三座とも猿若(さるわか)町に移転させられた。72年(明治5)三座の制度が廃止され,興行地も自由となった。
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…これは天保改革の一環であった。町奉行遠山左衛門尉の進言によって取りつぶしはまぬかれたが,江戸三座は浅草の猿若町に強制移転させられた。以後,72年(明治5)に守田座が新富町へ移転するまでの30年間,いわゆる〈猿若町時代〉がつづいた。…
…江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈櫓(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。座元の名跡は世襲であり,その座元の名前を掲げて劇場名ともした。…
…座元は金主から資金の提供を受けて役者の座組をつくり,興行上の一切の責任を負った。小芝居は別として,〈江戸三座〉といわれた三座の制が幕末まで守られ,座元の権勢は芝居関係者のなかにぬきんでていたという。1872年の府令により,ほかに興行を許された者が出るに及んで世襲の制度は崩れ,その特権は失われた。…
…客席を通って揚幕へ通じる花道の発生は,寛文(1661‐73)ごろといわれるが,これが常設の設備となったのは元禄(1688‐1704)以降のことである。中村・市村・森田(守田)の江戸三座は,しばしば焼失して改・新築をくりかえしているが,天明・寛政(1781‐1801)のころの舞台の大きさは,6~7間の間口が普通で,いわゆる〈本舞台三間〉といわれたころに比べてかなり拡張している。 額縁式の舞台様式が誕生するのは明治初期以来であり,1872年(明治5)に新富町に移転した洋風建築の守田座は間口11間(19.8m),89年開場の東京歌舞伎座は12間と広がっている(ちなみに戦後再建された歌舞伎座は間口15間である)。…
※「江戸三座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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