生田村(読み)おいたむら

日本歴史地名大系 「生田村」の解説

生田村
おいたむら

[現在地名]右京区嵯峨野さがの秋街道あきかいどう町・有栖川ありすがわ町・かみ町・嵯峨さがだん町・清水しみず町・ひらき町・みやもと町〉

北は上嵯峨、西は有栖川を境に下嵯峨、南は高田たかた、東は太秦門前うずまさもんぜん・太秦安養寺の各村に接する純農村。古くは葛野かどの高田郷(和名抄)の地と思われる。村名は斎宮さいぐう神社の馬場の松並木の小枝が風にゆれる有様から小枝をえだ村といったものが転訛したと伝える(太秦村誌)

享保五年(一七二〇)の村明細帳に、古検高は二三四石五斗三升四合、うち天龍寺領一八〇石五斗九合、阿野家領九石三斗五升五合、八幡公文領二石三斗、残り四二石三斗七升が代官所支配で、この石高は幕末まで変化はない。家数は高持一六軒、水呑六軒、人口は男五四人、女六〇人の計一一四人、それに牛一二匹とある。当村は元禄八年(一六九五)から伏見ふしみ(現伏見区)の大助郷役を務めてきたが、訴訟の結果、宝永六年(一七〇九)に御免となった。

生田村
いけだむら

[現在地名]美土里町生田、高宮たかみや川根かわね

高田郡西北端に位置し、北は石見国、東は川根村(現高宮町)、西は山県郡の村々に接する。村内東方に犬伏いぬぶし山がそびえ、集落はその西南方生田川上流域の沖積地に集まる。「芸藩通志」に「もとは池田とも書けりといふ、広一里四町、袤二里半、東西北は皆山にて南は平田隣村に接く、一水東南に流る、北に川あり、石見の界とす、民産炭焼・駄送あり」と記す。

中世は長講堂領吉茂よししげ庄のうちかみ庄に属し、建武三年(一三三六)三月八日付の桃井義盛下文(吉川家文書)に「吉茂庄内池田村三分一地頭職」が山県郡新庄しんじよう(現大朝町)に本拠を置く吉川経久に預け置かれたことが記される。戦国時代には石見国阿須那あすな(現島根県邑智郡羽須美村)藤掛ふじかけ城主高橋氏の領知する所で、村内にはその一族を配した高橋たかはし城があったが、毛利元就によって天文五年(一五三六)に落城、以降は毛利氏の領知となった。

生田村
いくたむら

[現在地名]中央区生田町一―四丁目・二宮町にのみやちよう一―四丁目・こと緒町おちよう一―五丁目・旭通あさひどおり一―五丁目・雲井通くもいどおり一―八丁目・雲井通・布引町ぬのびきちよう一―四丁目

生田宮いくたみや村の東、六甲ろつこう山地南麓、生田川扇状地の麓寄り東岸に位置する。山陽道が通る。「日本書紀」天武天皇九年(六八〇)一月条に、摂津国から「活田村に桃李実れり」と報告したとある。文安元年(一四四四)一二月二七日の摂州生田村結解状(能福寺文書)によれば、村内の六反の田より米二石二斗九升五合が得られ、堤築のため米二石四斗(反別四斗)が支出され、一斗五合(代銭一七〇文)が不足したほか、杭代一〇〇文が下行されている。

生田村
いくたむら

[現在地名]一色町生田

矢作古やはぎふる川と市子いちご川の中間、酒手島さかてじま村の南に享保一〇年(一七二五)開発された新田村。元禄二年(一六八九)高取たかとり(現高浜市)甚兵衛により開発が企てられたが高潮のため失敗、宝永三年(一七〇六)に続いて、享保八年再び工を起こし、同一〇年完成した。藩政期、旗本松平備前守の所領、享保八年分家松平筑後守に代わる。

生田村
いくたむら

[現在地名]西区伊川谷町有瀬いかわだにちようありせ大津和おおつわ一―三丁目

伊川の左岸台地に位置し、北は南別府みなみべふ村。明石藩主松平信之の開墾策によって寛文二年(一六六二)に開発が始まった新田村で、田代村新田村といった(采邑私記)。後述する伊川谷掘割の完成で水田が生れ、生田村に改称したという(明石市史)元禄郷帳に村名がみえ、高一四六石余。天保郷帳では高一六四石余。明石藩領として幕末に至り東浦部組に所属。寛文一一年村民が伊川上流で取水して灌漑用水を開削した。小寺こでら村・長坂ながさか村・南別府村と当村を経て大蔵谷おおくらだに太寺たいでら(現明石市)に至る全長三千九二間。

生田村
しようだむら

[現在地名]岡崎市美合みあい

矢作川支流のおと川が村境の西大平にしおおひら村南端を大きく迂回して、ここから山綱やまつな川が分岐する。その南側の低い台地上に立地。慶長六年(一六〇一)東海道伝馬制の際に、東海道の街村となる。東は蓑川みのかわ村・藤川ふじかわ宿に続き、北西へ西大平村・かけ村より岡崎の城下町に続く。西から南へ大西おおにし平地ひらちに接する。

「三河国名勝志」「三河国二葉松」によれば、中世に足利氏の末流荘田氏の一族が住み、その子孫荘田安守が松平七代清康に出仕したと伝える。また「三河堤」に生田村古城跡として酒井雅楽頭一族の酒井彦四郎・石川又四郎・生田六左衛門の出生地と記す。土豪生田四郎兵衛が建暦元年(一二一一)熊野権現を勧請したのが旧村社日吉ひよし神社といわれる。

生田村
いくたむら

[現在地名]倉吉市生田・丸山町まるやまちよう

岡田おかだ村の南、小鴨おがも川左岸の平地に位置する。古くは鹿首かのくび村と称し、また「かくび」ともよんだ。享保一六年(一七三一)に生田村と改めた(同一九年鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)備中往来の脇道は小鴨川対岸東方の余戸谷よどだに村から当村に入り、同川左岸沿い諸村の集落を結んで南下し、湯関ゆのせき宿(現関金町)で同往来本道に合流した。正保国絵図に鹿首村の村名がみえる。拝領高は三五四石余、本免は五ツ二分。倉吉組士の長谷川氏・渡辺氏・小谷氏の給地があった(給人所付帳)。前掲「伯耆誌」では高四七〇石余、竈数二〇余、村内に荒神を祀る。

生田村
あしうだむら

[現在地名]嬬恋村芦生田

吾妻川右岸にあり、東は小宿こやど川を境に袋倉ふくろぐら村。上芦生田かみあしうだ・下芦生田の字がある。貞治元年(一三六二)一〇月一八日のしゝ大夫旦那職譲状(下屋文書)に「あしおたのたんとうた・いや五郎・平六」、応永二〇年(一四一三)七月二五日の薩摩聖心旦那譲状(同文書)に「上あしをた殿御一門御一家」「下あしをたの少泉殿御子孫」などがみえる。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写では高一〇五石余。寛文郷帳では田方二九石余・畑方七六石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では四六二石余、鎌原縫殿と西久保治部左衛門の給分。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では一六二石余。元禄郷帳では幕府領。天明三年(一七八三)浅間焼けの被害は、浅間焼出大変記写(一場文書)では一八三人のうち一六人流死、泥入り一五一石余、家屋四三すべて流失、馬四三すべて流死。

生田村
いくたむら

[現在地名]木造町兼館かねだて

田圃を隔てて東に兼館かねたて村、南西に吉水よしみず村、西にはやし村、北西に石館いしたて村の支村「石館支」がある。

天和三年(一六八三)の開村というが(西津軽郡史)、天和三年の広須御新田所図にはみえない。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)それまでの可和かわ村が生田村と改名された。翌年広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下とあり、「生田村元川村改名」とみえる(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて一七町四反一三歩、村高八五・三〇五石であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報