高田郷(読み)たかだごう

日本歴史地名大系 「高田郷」の解説

高田郷
たかだごう

和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。本郷にかかわる売券が数通残る。承和三年(八三六)二月五日付山城国高田郷長解案(平松文書)に、

<資料は省略されています>

とある。売買人、保証刀禰ばかりか、証判を加えている郡司にも秦姓が圧倒的である。また嘉祥二年(八四九)七月二九日付山城国高田郷長解(根岸文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、朝原氏は秦氏の同族であってこれまた秦姓のかかわりが極めて多い。ほかに、嘉祥二年一一月二〇日付山城国高田郷長解(柏木氏所蔵文書)・嘉祥二年一一月二一日付秦忌寸鯛女家地立券文(根岸文書)・嘉祥四年二月二七日付山城国高田郷長解(根岸文書)などにおいても同じ傾向である。このうち、嘉祥四年の売券には、

<資料は省略されています>

とあり、高田郷の郷名を負う「郷長高田部」なる名がみられるし、また「葛野」の名もある。


高田郷
たかだごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本に「多加多」の訓がある。「但馬考」は夏栗なつぐり久斗くと禰布によう石立いしたち国分寺こくぶんじ水上みのかみの六村とするが、同じく円山まるやま川左岸の松岡まつおか土居どい府中新ふちゆうしん府市場ふいちばなども含むか(以上現日高町)。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)正月二六日条に「遷但馬国治於気多郡高田郷」とあり、この年高田郷に但馬国府(第二次国府)が置かれたことがわかる。郷内における国府の所在地は明らかでないが、一九八〇年代の半ば以降の調査で、水上の深田ふかだ遺跡から、「(表)官稲」「(裏)大同五年」、「(表)佐須郷田率」「(裏)□□」などの木簡(上記二点は題籤)が出土、また同遺跡の南東五〇〇メートルにある川岸かわぎし遺跡も奈良時代の官衙関連遺跡で、合せて第二次国府の所在地を推定する有力な手掛りが得られた。


高田郷
たかだごう

安田やすだ庄を構成する五ヵ郷の一つ。現なか間子まこ加都良かつら神社を産土神とする中町間子・岸上きしがみ天田あまだ鍛冶屋かじや高岸たかぎし牧野まきの地域に比定される。永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案(九条家文書、以下断りのないものは同文書)によると、高田郷は四月と九月の二回、領家である九条家御所の大番役を勤仕している。応永三年(一三九六)四月日の九条経教遺誡によれば、高田郷は八条三位入道(源恵)が知行している。同五年八月一三日、中鍠は当郷内光庵下地を宝幢ほうどう(現京都市右京区)に寄進した(「中鍠都寺下地寄進状」鹿王院文書)


高田郷
こうだごう

「和名抄」東急本は肥伊ひい郷の次に置く。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「多加多」と訓を付す。建武政権下で八代庄地頭職を得た名和義高は建武二年(一三三五)同庄内の高田郷内志紀河内しきがわち(現八代市敷河内町)を出雲杵築きづき大社に寄進している(同年五月一五日「名和義高寄進状」千家家譜)。寛正六年(一四六五)名和顕忠は家督確保への援助の礼として高田郷三五〇町を相良為続に進上したが、文明一四年(一四八二)九月に至り、相良勢の守る高田城を攻めて同郷の回復を図って失敗し、同一六年には本城の古麓ふるふもと(現八代市)を追われる結果となった(年欠「相良氏山門知行以下由緒書」・天文五年一一月二二日「沙弥洞然(相良長国)長状写」相良家文書)。


高田郷
たかだごう

古代の気多けた郡高田郷(和名抄)を継承する中世の国衙領。古代の高田郷には延暦二三年(八〇四)但馬国府(第二次国府)が置かれており(「日本後紀」同年正月二六日条)、その所在地は円山まるやま川左岸の水上みのかみ松岡まつおかから府市場ふいちばにかけての一帯が有力視されている。郷域は府市場から祢布によう国分寺こくぶんじ辺りまでと推定される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「高田郷 六十七町四反百六十三分」とみえ、「地頭高田次郎忠員」「八幡宮神人免二町五反」の注記があり、田地の内訳は、常荒河成五町七反一一五歩、畠成一反三四〇歩、仏神田一七町九反三一〇歩、公田四三町五反二一九歩である。別に養父やぶ郡「水谷大社神田」の散在分に「高田郷 八反」(元三御祭田)があり、「為地頭忠員被押領之間、経上訴云々」と記される。


高田郷
たかたごう

[現在地名]多治見市高田町

欠簗かけやな郷の北にあり、土岐郡久尻くじり(現土岐市)の枝郷。高田勅旨田の遺称地。貞和五年(一三四九)六月一日の源頼秀寄進状(永保寺文書)にみえる「寺見坂」は現高田町一一丁目の辺りとされる。近世初めは旗本妻木領、万治元年(一六五八)以降幕府領。万治三年の免定(加藤文書)によれば高一二石余、うち田高九石余・畑高二石余。現高田町九丁目の一部は金蔵平きんぞうひらとよばれる。永禄九年(一五六六)懸輪那かけわな(欠簗)の百姓善小が子の金蔵・金八を連れて当地へ来て山を切開いたが、兄の金蔵が大犬にかみ殺されたためその場所を金蔵平とよぶようになったと伝える。


高田郷
たかだごう

旧愛知郡の熱田社領。現高田町辺りか。南高田みなみたかだ郷・北高田郷があり、各々独立した社領として記資料にされている。

南高田郷は、鎌倉後期と推定される熱田社領新別納郷并当役勤仕要郷注文案(猿投神社文書)に「南高田郷百六十三丁八反二百四十歩」とみえ、当注文記載の社領のうちでは大郷おおさと御薗(現知多郡)三二五町余に次ぐ規模をもっていた。


高田郷
たかたごう

「和名抄」高山寺本に郷名がみえるが、東急本・刊本は記載を欠く。みや川の上流横野よこの川流域の沖積平野、明治二二年(一八八九)成立の高田村に含まれる現津山市上横野かみよこの・下横野付近が郷域と推定される。横野川左岸丘陵上に前方後円墳の上横野丸山かみよこのまるやま古墳と六世紀後半頃の帆立貝式古墳である大野木塚おおのぎづか古墳(以上津山市)がある。下横野廃寺からは奈良時代の軒平瓦などが出土しているが、必ずしも寺院跡とは断定できない。


高田郷
たかたごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「高田」と記し、流布本のみ「多加多」と訓ずる。安元二年(一一七六)二月の八条院領目録(山科家古文書)に「伊予国新居、高田」とある。この郷の所在はつまびらかでないが、現北条市の正岡まさおか地区に高田の地名があるので、この地と推定される。


高田郷
たかたごう

「和名抄」諸本に訓はない。旭川と月田つきだ川の合流点付近の沖積地を中心とする近世の高田村、現真庭まにわ勝山かつやま町勝山一帯が郷域と考えられる。「三代実録」元慶元年(八七七)閏二月二三日条に「美作国真嶋郡加夫良和利山」がみえるが、「作陽誌」は高田村のかぶら坂がこれに関連する地名かとする。


高田郷
たかだごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。郷域は千種ちくさ川東岸、現上郡かみごおり町南東部にあたる高田たかた(明治二二年成立)一帯とされる。


高田郷
たかだごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。天平七年(七三五)閏一一月一〇日の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)の舎人親王食封三〇〇戸のうちに、足下郡高田郷五〇戸、田一六七町三反二五九歩がある。


高田郷
たかたごう

「和名抄」高山寺本は「多賀太」、東急本は「多加太」と訓を付す。武蔵国分寺跡(現東京都国分寺市)より「高田」と篦書した瓦が出土し、当郷の民も国分寺造立に関係していたことがわかる。


高田郷
たかたごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも高田と記し、東急本・元和古活字本は「多加多」の訓を付す。


高田郷
たかたごう

「和名抄」に「高田」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ今ノ河内郡高田村ナリ」とあり、現稲敷いなしき郡江戸崎町高田に比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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