出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
箏曲(そうきょく)、平曲(へいきょく)を専門とする盲人音楽家。都名(いちな)は、いく(幾)一。1685年(貞享2)版『京羽二重(きょうはぶたえ)』によると、幾田勾当(こうとう)時代、京都高倉通八幡(はちまん)町下ルに居住していた。そして『三代関』に、1696年(元禄9)12月17日今井検校序一のもとで検校になったと記されている。さらに1705年(宝永2)版『京羽二重』では、当道職階最高位の七老の位に記されている。近世箏曲の祖八橋(やつはし)検校門下の北島検校城春(じょうしゅん)の弟子。北島は、改めた手法を生田1人に伝えて早く没したため、北島流というべきものを、後世、生田流と称したと『新八橋流伝授書』に記されている。作曲は箏組歌(ことくみうた)『思川(おもいがわ)』(北島説も)、『鑑(かがみ)の曲』など。
[平山けい子]
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…【竹内 道敬】(4)地歌・箏曲の曲名。佐山検校(?‐1694)作曲の三弦曲および生田検校作曲と伝えられる箏曲を源流とする。砧の擬音的表現を主題とする4段構造の器楽曲で,能とは無関係。…
…また,江戸時代初期に八橋検校という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して箏曲として大成し,当道(とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。その孫弟子生田検校が,地歌三味線曲に箏を合わせることを始めたと伝えられるが,早くから箏曲は地歌と結合して発達した。江戸時代中期には山田流箏曲が江戸に誕生した。…
…そのほか,津軽箏曲に発展の途中の段階を示す段構造のものが数種遺存している。三味線曲化したものは,生田検校ないし深草検校の作曲と伝えられる。江戸の野田検校が,本雲井調子の替手を作曲しているが,京都などでは,平調子の替手が付けられ,八重崎検校の編曲と伝えられる。…
※「生田検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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