おもい‐がわ おもひがは【思川】
[1] 〘名〙 思いが深く、また、絶える間もないことを、川にたとえた語。
※後撰(951‐953頃)恋一・五一五「おもひ河絶えず流るる水の泡のうたかた人に逢はで消えめや〈伊勢〉」
[2]
[一] 福岡県太
宰府市、
太宰府天満宮の近くを流れる御笠川の上流、
染川の異称。思染川。逢初
(あいぞめ)川。
※俳諧・物種集(1678)「よめぬ文字かく
箱崎の浦 厄病の風吹おくる思ひ川〈
賀子〉」
[三]
隅田川の一支流。東京都台東区橋場と荒川区南千住の間の小川。駒洗川。
※廻国雑記(1487)「おもひ川に至りてよめる。うき旅の道にながるる思ひがはなみだのそでや水のみなかみ。かくて隅田川のほとりに至りて、皆々歌よみて
披講などして」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
思川
おもいがわ
吉田町北部から姶良町南部をほぼ東流して鹿児島湾に注ぐ。二級河川。流長約一七キロ、流域面積約六〇平方キロ。水源は吉田町本名字中田に発する。数本の支流を合せ、吉田町の旧麓あたりに谷底平野を形成。同町本名字大平を源流とする本名川は吉田町本城から姶良・吉田の町境をなす急流となり、姶良町平松と吉田町東佐多浦の境で思川に合流する。扇状地性の沖積平野を形成する下流は耕地および住宅地で、旧重富郷の中心地域である。「三国名勝図会」には渡瀬川とみえ、平松川ともいわれると記される。寛政(一七八九―一八〇一)頃の思川には脇元橋が架けられており(列朝制度)、川の両岸にあたる現姶良町の脇元・西餅田に橋ノ口という小字が残る。
思川
おもいがわ
「八雲御抄」に「おもひ河」が記される。実際に存在した川でなく歌語であったのが、「思初川」などと詠まれたことから大宰府の染川と混同されたと考えられる。しかし時代が下ると実際の川の名として認識されるようになる。飯尾宗祇の「筑紫道記」文明一二年(一四八〇)九月一九日条には「思川・染川などを見つゝ」、二〇日条には「思川の俤は袖の上に留まりぬ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
世界大百科事典(旧版)内の思川の言及
【小山[市]】より
…人口15万0115(1995)。市の主要部は思(おもい)川の東岸にあり,中世以来の[小山氏]の城下町で,江戸時代は[日光道中]の宿場町,思川水運の河港として栄えた。明治以降は東北本線から両毛線と水戸線が分かれ,国道4号線と50号線が交差する交通の要地となり,地方物資の集散地として農産物加工業が発達した。…
※「思川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」