箏曲(そうきょく)の流派名。箏組歌(ことくみうた)およびこれに付随する段物(だんもの)などの伝承の差によって生じた一流派。近代箏曲の祖と称される八橋検校(やつはしけんぎょう)門下の北島検校城春(じょうしゅん)(?―1690)は、手法を改め独立の意志があったのに、生田検校(いくたけんぎょう)いく一だけに伝えて早く没したため、その志を生田検校が受け継いだ。したがって、後世、北島検校以来の伝承を生田流と称するようになったと、『新八橋流伝授書』などに記されている。その後、大坂においては、菊永検校太一(1742―1824)が伝承を整理し、大坂生田流菊筋に伝えるに至った。一方、江戸には三橋(みつはし)検校弥之一(?―1760)が下って、その門下の菊崎検校加幸一以下、江戸の惣録(そうろく)(検校、勾当(こうとう)の上にあり統轄する官)屋敷を中心に伝承を広めた。この江戸の生田流は、文化(ぶんか)年間(1804~1818)に山田検校が現れ山田流箏曲を創始するまでは、むしろ江戸箏曲の主流であり、その後も伝承は行われた。また、京都においては、三橋検校と同門あるいは弟子ともいわれる安村検校頼一(?―1779)が伝承曲目組織の整理を行った。その伝承は職屋敷を中心に盲人音楽家の間で行われ、安村門下の長谷富(はせとみ)、石塚、久村、河原崎(かわらさき)、藤池、浦崎の各検校によって、江戸、大坂、九州、名古屋、京都など各地に分流されて伝承された。現在では、山田流に対して、それ以外の普通の箏曲を総称する場合にいう。生田流は、楽器本位、とくに三味線中心であり、浄瑠璃(じょうるり)風な唄(うた)本位、そして箏(こと)中心である山田流と趣(おもむき)が異なる。また、箏の楽器や爪(つめ)の形なども異なる。
[平山けい子]
箏曲の流儀名。本来は組歌およびその付物の伝承の差によって称せられたもので,八橋検校の創始したものと異なり,また隅山検校,継山検校などの伝承とも異なるという意識で当初は呼ばれた。八橋の創始を改変したのは北島検校であったが,北島は早く没したため,その門下の生田検校の名のみが後代に伝えられ,その系統を生田流というようになったともいわれる。大坂では,生田から米山検校を経て伝えられたものを特に古生田流,生田から倉橋・安村・石塚・市浦の各検校を経て伝えられたものを新生田流ともいう。江戸には倉橋門下の三橋検校から菊崎検校以下に伝承されたものが,江戸時代末まで続いたが,山田検校以下の山田流に圧倒された。現在では,山田流以外をすべて生田流と称する傾向にあるが,継山流などの伝承も存続しており,狭義の山田流箏曲の楽曲は別種目の音楽様式といえるもので,箏曲の流儀を生田と山田に二分するのは適当でない。なお,津軽に流伝したものは,郁田流と表記する。
→箏曲
執筆者:平野 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…以後,盲人社会を中心に,その伝承と創造とが行われ,その門葉からさまざまな流派を生じた。京都では,八橋門下の北島検校から伝承を受けた生田検校以降の伝承を中心として,これを生田流と称したが,大坂では,生田流以外に,継山(つぐやま)検校以降の伝承による継山流もあって,現在にまでその伝承は続いている。ほかに,かつては新八橋流と称する派もあり,また,生田流でも,市浦検校以降の系統を新生田流と称することもあった。…
…これらの山田流箏曲は,上記掛合物を除いて箏数面と三味線1挺(長唄に近い三味線を使用)の編成を原則とし,歌は,全楽器の演奏者が,弾き歌いで歌い,部分によっては,歌い分けの交互独唱を行う。この狭義の山田流箏曲は,組歌に準じて初・中・奥の歌曲および〈手の物〉(《都の春》《四段砧》など)に分類されるが,生田流をはじめ,地歌演奏家を兼ねる他流の箏曲家には原則として演奏されない。ただし,山田流箏曲家は,組歌・段物をはじめ,地歌移曲物も演奏する。…
※「生田流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新