田中栄三(読み)たなかえいぞう

改訂新版 世界大百科事典 「田中栄三」の意味・わかりやすい解説

田中栄三 (たなかえいぞう)
生没年:1886-1968(明治19-昭和43)

日本映画の〈芸術的革新者〉として知られる監督脚本家。東京生れ。国民英学会の夜学で英文学を学んだのち,新派藤沢浅二郎)の東京俳優学校に入学し,そこで教授をしていた〈新劇の父〉小山内(おさない)薫から近代劇ドラマトゥルギー演技のリアリズムを学んだが,新劇では生計が立たず,1917年,当時は新派悲劇的作品を粗製していた日活向島撮影所に入り,翌18年,監督第1作《暁》を発表した。次いで,芸術座が舞台にのせて大成功したトルストイの《生ける屍》(1918)を映画化し,まだ〈活動写真〉の域を脱しきれないものではあったが,演出や演技指導には古い新派の型を破ろうとする新鮮な意欲が見られ,カット・バック,移動撮影,逆光線撮影などが効果的に使用されて注目を浴びた。当時の日本映画の革新運動の大部分は,その内実としてはアメリカ映画の模倣やヨーロッパ近代劇の翻案であったが,田中はオリジナルシナリオによる《京屋襟店(えりてん)》(1922)と《髑髏(どくろ)の舞》(1923)で,日本人の生活を日本人の視点から写実的に描き,とくに下町の老舗が没落するものがたりを四季の移り変りのなかで描いた《京屋襟店》は,〈傑作〉と呼ばれた最初の日本映画であり,田中はそれにより映画革新運動の理論家というよりはむしろ実践家としての業績を残した。トーキー以後はほとんど作品がなく,現場から退いた後は,日本映画俳優学校で多くの人材を育てた。関東大震災直後,森岩雄らと日活金曜会で企画の刷新をはかり,溝口健二《紙人形春の囁き》(1926),阿部豊《彼をめぐる五人の女》(1927)など日本映画の古典的名作として記録されることになる作品のシナリオを書いた。晩年は大学の芸術学部や撮影所の俳優養成所で演技理論と実際の指導にあたり,また,今井正《また逢う日まで》(1950),豊田四郎《雁》(1953)その他に特別出演している。《映画演技読本》《明治大正新劇史》などの著書がある。
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20世紀日本人名事典 「田中栄三」の解説

田中 栄三
タナカ エイゾウ

大正・昭和期の映画監督,俳優,演劇史家



生年
明治19(1886)年11月3日

没年
昭和43(1968)年6月13日

出生地
東京・日本橋兜町

学歴〔年〕
国民英学会英文科〔明治38年〕卒

経歴
国民英学会講師となり、41年東京俳優養成所に入学。44年卒業し小山内薫の助手として新劇運動に参加。大正6年日活向島撮影所に入り映画監督となる。主な作品に「西廂記」「京屋襟店」「髑髏の舞」など。13年以降はシナリオ執筆に専念、また日大芸術科、日活、東宝、大映などで俳優養成にあたる。シナリオ作品に「彼をめぐる五人の女」など、著書に「近代劇精通」「明治大正新劇史資料」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中栄三」の意味・わかりやすい解説

田中栄三
たなかえいぞう

[生]1886.11.3. 東京
[没]1968.6.13. 東京
映画監督,俳優,脚本家。初め新劇の舞台で活躍し,小山内薫の指導を受けて翻訳劇に出演。 1917年日活に入社。翌年監督となり,第2作『生ける屍』 (1918,トルストイ原作) では表現技術上の革新をねらった。主要作品『西廂記』 (20) ,『京屋襟店』 (22) ,『髑髏の舞』 (22) 。脚本に『紙人形春の囁き』 (26) ,『彼をめぐる五人の女』 (27) ,出演作『女の一生』 (49) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中栄三」の解説

田中栄三 たなか-えいぞう

1886-1968 大正-昭和時代の映画監督,脚本家。
明治19年11月3日生まれ。新劇俳優をへて日活向島撮影所にはいり,大正7年「暁」を監督。「京屋襟店」「髑髏(どくろ)の舞」で注目される。のち脚本家となり,「彼をめぐる五人の女」ほかをかく。日本映画俳優学校,日大芸術学部などの講師をつとめた。昭和43年6月13日死去。81歳。東京出身。東京俳優学校卒。

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367日誕生日大事典 「田中栄三」の解説

田中 栄三 (たなか えいぞう)

生年月日:1886年11月3日
大正時代;昭和時代の映画監督;脚本家
1968年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の田中栄三の言及

【豊田四郎】より

…日本映画史に一つの流れをつくった〈文芸映画〉の名匠として知られる。京都に生まれ,府立一中を卒業後,東京へ出て劇作家を志すが,偶然の機縁で知り合った日本映画の先駆的監督田中栄三にシナリオを書くことをすすめられ,次いで松竹蒲田撮影所の島津保次郎の助監督となり,佐藤春夫の小説《売笑婦マリ》からヒントを得た自作の脚本による《彩られる唇》(1929)で監督となった。その後,ふたたび5年間の助監督生活を余儀なくされるという曲折があったが,1936年,松竹の監督であった重宗和伸(1896‐1971)が前年に設立した東京発声映画製作所に入社し(1941年,解散して東宝に吸収される),北国のアメリカ系ミッション・スクールを舞台に自由なモラルを描いた石坂洋次郎のベストセラー小説をみずみずしい手法で映画化した《若い人》(1937)で認められ,一流監督として知られるようになった。…

【日本映画】より

…たとえば,1920年に日活が女優採用に踏みきったことである。また,先に新派《生ける屍》で新鮮な映画手法を見せた田中栄三が,22年,東京下町の老舗の没落を描いた《京屋襟店(えりみせ)》によって,日本人の生活と欲望をなまなましく表現した画期的な映画作品を出現させ,その姿勢を翌年の《髑髏(どくろ)の舞》でも貫いた。前者はまだ女形を使っているが,日本でほとんど最後の女形映画といわれ,後者にはやがてスター女優となる岡田嘉子,夏川静江(のち静枝)が出演している。…

※「田中栄三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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