日本大百科全書(ニッポニカ) 「田本研造」の意味・わかりやすい解説
田本研造
たもとけんぞう
(1832―1912)
営業写真師。紀州南牟婁(みなみむろ)郡(現三重県熊野市)の農家に生まれる。明治初期におけるドキュメンタリー写真の傑作群として知られる「北海道開拓写真」の撮影に取り組んだ写真師の一人。後に故郷の音無(おとなし)川にちなみ、「音無榕山(ようざん)」と名のった。1854年(安政1)ごろ長崎へ出て蘭医吉雄圭斎(よしおけいさい)の下僕となり、医学や舎密(せいみ)学(化学)を学ぶ。59年長崎から北海道の箱館(現函館)に転勤となった通詞松村喜四郎に伴い、開港してまもない箱館へ移り住む。その後、重度の凍傷のため壊疽(えそ)をわずらい右脚を膝頭から切断する手術を受ける。この時に治療にあたったロシア海軍軍医ゼレンスキーから写真術の手ほどきを受けることになったともいわれている。また同地で写真術を身につけようと研鑽を重ねていた横山松三郎、木津幸吉(1830―95)らとも交流。1866年(慶応2)ころより、写真師として活動を始めた。箱館戦争(1869)で新政府軍と戦った榎本武揚(たけあき)、土方歳三(ひじかたとしぞう)の当時の肖像として知られている写真や、函館湾内に沈没した旧幕府軍軍艦「回天」の記録写真は、田本が撮影したものと伝えられている。
71年(明治4)、明治政府の行政機関として北海道開拓事業を押し進めていた開拓使がその拠点を箱館から札幌へ移すにあたって、田本は開拓使から札幌周辺の開拓進捗状況の撮影を要請される。助手と共に約1か月にわたって取り組まれたこの仕事で、田本は幾枚かの写真をつなげ広い視覚の画面を作るパノラマ写真の方法などもまじえながら、荒野や山林が切り拓かれ、土木や建築のプロジェクトが進行していく光景を克明に記録していった。その成果の一部は、73年ウィーン万国博覧会に出品された。この後、オーストリア人写真家スチルフリード・ラテニッツStillfried Retenizや武林盛一(せいいち)(1842―1902)らの日本人写真師も開拓使と契約を結び、変貌していく北海道の状況の記録撮影に取り組んだ。このようにして明治前期に幾人もの撮影者たちにより形成された「北海道開拓写真」は、現実との厳しい対峙に支えられた迫真のドキュメントとして1960年代後半以降、再評価されるようになった。
田本はその後も函館で写真師として活動、1908年に門弟に店を譲り引退した後、12年(大正1)81歳で没した。
[大日方欣一]
『ニッコールクラブ編・刊『ニコンサロンブックス6 北海道開拓写真史 記録の原点』(1980)』▽『渋谷四郎著『北海道写真史 幕末・明治』(1983・平凡社)』▽『佐藤清一著『箱館写真のはじまり』(1999・五稜郭タワー)』▽『『日本の写真家2 田本研造と明治の写真家たち』(1999・岩波書店)』