社会主義者。熊本県出身。1892年熊本英学校在学中に洗礼を受ける。鎮西学院神学科卒業後,98年シカゴ大学神学部に入学し,A.W.スモールやR.ヘンダーソンらの社会学講義から強い影響を受ける。処女作《経済進化論》(1904年平民文庫として出版)に,その現代社会への文明批評の理論が生かされている。1900年末帰国し,《長崎絵入新聞》《鎮西日報》の主筆となり,社会学的方法と近代主義の観点から健筆を振るった。しかし,当時盛んであった対露同志会には反対の陣をはらなかった。04年上京し,平民社の講演会などに参加し,06年日本社会党の評議員に選出される。同年《新紀元》に連載した〈世界平和の進化〉では,20世紀の帝国主義の特徴を抽出し,革命と世界平和への道を追求した。07年2月第2回日本社会党大会で,アメリカから帰国した幸徳秋水の直接行動論に対し,多様な運動形態をとるべきだとして議会政策論に立った。〈議会政策もあれば,直接行動もあろう。亦た労働者教育もあろう〉(〈議会政策論〉日刊《平民新聞》2月14,15日)と,状況に応じた運動政策の発見を唱えた。08年3月民主的に運営された全国組織の建設を提言した,〈全国の同志諸君へ〉(《社会新聞》)を最後に,結核のため死亡した。
執筆者:渡辺 悦次
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明治時代の社会主義者。明治8年7月24日、熊本県飽田(あきた)郡中緑(なかみどり)村(現熊本市南区)に生まれる。熊本英学校、長崎の鎮西(ちんぜい)学院を経て、シカゴ大学で宗教学と社会学を勉学し、1900年(明治33)末帰国。のち長崎で『長崎絵入新聞』『鎮西日報』の主筆を務め、日露戦争勃発(ぼっぱつ)後の1904年3月上京。同年10月堺利彦(さかいとしひこ)の斡旋(あっせん)で平民文庫から処女作『経済進化論』を出版して社会主義運動に参加し、『新紀元』『光』『平民新聞(日刊)』『社会新聞』などの各社会主義紙誌に多面的な論説を展開。代表作は『新紀元』に連載された「世界平和の進化」であるが、1907年2月の日本社会党第2回大会で幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の直接行動論に対抗して展開した議会政策論は、明治社会主義論争の一方の峰として注目される。しかし、赤貧洗うがごとき生活のため翌明治41年3月19日結核で死去。その夭逝(ようせい)は多くの人に惜しまれた。
[岡本 宏]
『岡本宏著『田添鉄二』(岩波新書)』
明治期の社会主義者
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(小宮一夫)
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…しかし,K.カウツキーに代表される当時の正統派は,その後レーニンという新たな正統によって断罪され,さらに最近ではスターリン批判以後のソ連共産党が中国から〈現代修正主義〉として批判された時期もあった。日本で修正主義という言葉が流布されるようになったのは,1905年のロシア革命の影響を背景にした幸徳秋水らの直接行動派と田添鉄二らの議会政策派の論争にみられる社会主義者の分裂が発生したころであったとされる。【亀嶋 庸一】。…
※「田添鉄二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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