日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲午の改革」の意味・わかりやすい解説
甲午の改革
こうごのかいかく
朝鮮、李朝(りちょう)末期、1894年7月から96年2月の間に行われたブルジョア的改革。甲午農民戦争鎮圧を名目にして出兵した日本は94年7月、朝鮮政府に対し内政改革を要求し、これがいれられぬと、王宮を占領して金弘集(きんこうしゅう)を首班とする開化派政権を樹立した。同政権は軍国機務処を設置して改革案を審議決定し、宮内府と議政府との分離などの行政機構の抜本的改革、科挙廃止による官吏任用法改革、財政機構の一元化と租税の金納化、幣制改革、封建的身分制の廃止などが急速に実施された。ついで10月、井上馨(かおる)日本公使が赴任すると、政府各部に日本人顧問官が配置され、朴泳孝(ぼくえいこう/パクヨンヒョ)が政府の実権を握るようになり、日本からの借款を財源に第二段の改革が進み、内閣制度の整備、裁判所創設などの司法制度改革、警察の整備、八道を23府に変える地方制度改革などが行われた。
三国干渉後、宮廷内に反日勢力が増大し、95年7月に朴泳孝が追放されると、改革は停頓(ていとん)した。10月の閔妃(びんひ)虐殺事件(乙未(いつみ)事変)後、第四次金弘集政権下で小学校設立、郵便網整備、軍制改革などが実施されたが、同政権は96年2月の政変により倒れ、改革も終わりを告げた。甲午の改革は上からの急激な改革であるとともに、対日従属下に実施されたために、その開明的、近代的内容が社会へ定着するには多くの困難を伴った。
[糟谷憲一]