畑田村(読み)はたけだむら

日本歴史地名大系 「畑田村」の解説

畑田村
はたけだむら

[現在地名]宇佐市畑田

川部かわべ村の西、駅館やつかん川の下流西岸にある。南は上田うえだ村・芝原しばはら村、北は江島えしま村・乙女おとめ村。延暦年中(七八二―八〇六)辛島赤蜂によって開発されたと伝える辛島からしま田圃の内。同田圃の標高はだいたい五メートル前後であるが、当地には標高九―一〇メートルほどの一段高い畑田があり、地名はこのことに由来するものであろう。中世は辛島郷の内。地内字安光やすみつは同郷安光名の遺称地といい、また芦原あしわら船橋田ふなばしだ須川すごう口戸くちど高畠たかはた鎌田かまたなどの字名も中世の史料に散見する。

承安二年(一一七二)二月一〇日の大神貞安譲状(小山田文書)に「字高石木」とみえ、宇佐宮御装束所検校大神貞安は辛島郷内の高石木にある田一町を三男酒井安真に譲っているが、この高石木を地内字高脇たかいわきとする説もある。正和四年(一三一五)六月沙弥妙覚は上洛中に万一死亡した場合の所領配分を定め、子の神主忠基に「からしまのあしわら五反」などを譲った(「沙弥妙覚田畠等処分状」永弘文書)


畑田村
はただむら

[現在地名]綾南町畑田

すえ村の東に位置し、当村の北東部をよぎる本津ほんづ川とあや川の支流とみ川に挟まれた標高五〇―六〇メートルの丘陵地に立地。北境に標高三四一メートルの挿頭かざし山があり、山麓を高松・金毘羅街道が南西に走る。寛永国絵図では甲知こうち郷のうちに村名がみえる。貞享高辻帳では高二九二石余。天保九年(一八三八)の御領分明細記では八九五石余。文政五年(一八二二)の紙漉一件留(西村文書)によれば、当村政所安兵衛が紙草類買集人に申付けられている。溜池は大皿おおさら池・常福寺じようふくじ池から水掛高一一〇石。このほか三八。べつに千疋せんびき村にある大谷おおたに池からは同高四四石の用水を得たほか、村内の多くの池へも配分されていた。


畑田村
はただむら

[現在地名]岩瀬村畑田

上柱田かみはしらだ村・下柱田村の南、深渡戸ふかわたど村の東、岩根いわね川中流域緩丘陵に立地。畠田とも書く。矢沢やざわ村から下柱田村への道が通る。天正一七年(一五八九)一一月二〇日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「畠田」とみえ、政宗は二階堂氏旧臣浜尾盛泰の本領であった畠田半分を安堵している。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「畑田」とみえ、高四七四石余。白河古領村郷高帳でも同高。寛文一三年(一六七三)検地では高六九六石余(「大久保藩村々石高」福島県史)。宝永七年(一七一〇)から正徳四年(一七一四)の間の改出新田高三石余、これに対し宝暦七年(一七五七)以来の荒地高九六石余(「長沼領村高調」同書)。寛政七年(一七九五)当村庄屋が上納米割付および取立帳・諸入用帳を秘匿するなど二一ヵ条の不正を働いたとして組頭・長百姓ら一四名が庄屋退役を長沼藩郡奉行に訴えた(「庄屋不埒ニ付村方願書」同書)


畑田村
はたけだむら

[現在地名]茨木市畑田町・五日市緑いつかいちみどり町・松下まつした町・田中たなか町・三咲みさき町・五日市いつかいち一丁目

倍加へか村の北に接し、村の北から東を茨木川が流れる。寛元元年(一二四三)五月二一日の奥書をもつ沙弥心空筆勝尾寺古流記(勝尾寺文書)に、光仁天皇が勝尾かつお(現箕面市)に施入した水田六〇町の在所七ヵ村の一として「畠田」がみえ、慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図も「畠田村」と記す。元和初年の摂津一国高御改帳では高槻藩内藤信正領の「へか・畠田・中条・田中」一千二一一石余に含まれ、その後京都所司代板倉重宗領となったが、「中条村」の一村として重宗の子重郷・重形に伝えられ、天和元年(一六八一)幕府領となったとみられる(→倍加村


畑田村
はたけだむら

[現在地名]庄内町畑田

大分川左岸、橋爪はしづめ村・葛原かずらわら村の西にある。阿南あなん庄はたけ田名の遺称地。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷橋爪組に属した(府内藩記録)正保郷帳に畠田村とみえ田高二九一石余・畑高七八石余、阿南庄に所属。旧高旧領取調帳では高四一一石余。享保一二年(一七二七)完成の馬場渡ばばわたり新井手は武宮たけみや村に取水口を設け、大分川左岸沿いに時松ときまつ(現挟間町)まで流れる井路であるが、当村より上流を馬場渡井出、下流を馬場渡新井出ともよぶ(「野田原通水井出筋略絵図」県立大分図書館蔵)


畑田村
はただむら

[現在地名]江津市松川町畑田まつかわちようはただ

那賀郡北東部にあり、北は都治本つちほん郷、東は邇摩にま波積本はづみほん郷・波積南村。村域の大部分を標高二〇〇メートル以上の丘陵地が占める。いち村に置かれた川登かわのぼり口番所の添村として番所の日用経費や修復費用を負担した(「石見国郡中入用其外取計定書」重富家文書)正保国絵図に村名がみえ、高四一九石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方一七三石余・畑方四五石余、年貢高は米八二石余・銀三六八匁余、家数本家一五・門屋三六、人数二四三、馬三・牛一七で、威鉄砲一挺がある。


畑田村
はたたむら

[現在地名]赤来町畑田

石見国邑智おおち郡に属し、北東は井戸谷いどだに村、南と西は都賀本つがほん(現大和村)。村のほぼ中央を塩谷しおだに川が深い谷の中を南流し、両側の山岳もやや急峻で平坦面が少なく、耕地も少ない。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一五六石余・畑方六四石余、年貢高は米九九石余・銀五一五匁余、家数は本家二五・門屋一四、人数一八九。宝暦三年(一七五三)石見銀山では多量の木炭供給の目的で添村制度を設け、番所別に割当制度を作った。


畑田村
はただむら

[現在地名]洲本市畑田組はただぐみ

相川あいかわ村の西にあり、南は海に面する。津名つな郡に属し、西は三原みはら来川こりかわ(現南淡町)。正保国絵図には上灘かみなだ三ヵ村の内として畑田村がみえ、三ヵ村の高は合せて六六石余。享保元年(一七一六)郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高二一石余。天保郷帳では高三〇石余。文化七年(一八一〇)の棟附人数改帳(洲本市史)によれば家数四四・人数一三八、牛三、船四。


畑田村
はただむら

[現在地名]浅川町畑田

里白石さとしらいし村の南の丘陵地に位置し、谷間には豊富な湧水が多く、畑を耕す者が多かった。そのため、山仕事のほか畑や田作りが盛んであったのが村名の由来とされる(浅川史)。永禄一三年(一五七〇)五月九日の白川義親証状(奥州文書)に「はた田之地」とあり、以前約束したとおりに当地が義親の手に入った場合には、すぐに上遠野藤兵衛尉に与えると再度約束している。なお、年欠五月二五日の長泉寺他連署覚書写(浅川文書)に浅川大和守の知行地としてみえる「む久ろ田村」は字躰田むくろだに比定され、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「むくろ田」とみえ高一二九石余とあるが、以後むくろ田の村名はみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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