天皇の制定施行によらずに国内の一部で作成使用された年号。私年号ともいう。日本最古の異年号は621年(推古29)に当たる法興であって,かつてこれを国家制定の正年号と見る説もあったが,今日では聖徳太子を賛仰する法隆寺僧が太子の経歴を記すために私用したものと考えられている。645年(大化1)はじめて公定の年号が現れ,ついで701年(大宝1)制定の大宝令に年号使用の条文を設けるとともに,年号が継続使用されることとなって,年号制度が確立するが,その後,異年号が初めて現れるのは12世紀後半である。まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。
南北朝時代に入ると,1345年(興国6・貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。ついで84年(元中1・至徳1)叡山・南都の一部僧侶の使用にかかる弘徳,88年(元中5・嘉慶2)大和の一部に見られた永宝はいずれも,北朝において年号勘申を担当した公家たちの対立を背景として,正年号に対する不満から生まれたものと推測されている。次いで室町時代に入って,1443年(嘉吉3)天靖の年号が南朝の遺臣の間で用いられ,15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。
しかるに15世紀末以降の戦国時代に,東国・奥州に現れる福徳(1489),弥勒(1506か07ころ),永喜(1526),宝寿(1533),命禄(1540)などの年号は,弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉の厄難から逃れようとの願望の所産であって,正年号に対する政治的な不満,反抗,否定を含意したこれまでの異年号と一見趣を異にする。ところが当時の年号には,年号に攘災招福の呪力があるとのたてまえから,ほかならぬ攘災招福のために制定されたものがはなはだ多いことを考えると,これらの異年号は,国家公定の年号のもつたてまえ上の呪力を否定することで,国家の年号に対する根源的批判を表明したわけで,ここに異年号のもつもう一つの性格をうかがうことができる。
織豊政権を経て江戸幕府が成立し,国家統一が完成すると,慶長末年から元和にかけて(1613-23)キリシタン禁制がにわかに厳しさを加えるさなかに,一部キリシタン信徒の間に大道の年号が用いられたらしいが,これを唯一の例外として,異年号はまったく姿を消したようである。そして1868年(明治1)の戊辰戦争中,東北諸藩の反政府連盟軍の間で行われたらしい延寿が前近代最後の異年号となった。明治に入って1884年に自由自治,1904-05年に征露の年号が一部に行われたが,その作成使用の意図や機能について,積極的に評価する者は少ない。
→元号
執筆者:佐藤 進一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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[東国と西国]
佐藤進一が第2次大戦前すでに〈東国行政権〉と規定した,鎌倉幕府のこの地域に対する権限は,国衙に対する支配権,国の境あるいは2本所間の境相論(さかいそうろん)の裁判権,棟別銭(むなべちせん)賦課を含む交通路支配権などの統治権的,地域的な支配権であり,元号の制定,官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ,これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。事実,元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され,官位についても,幕府は御家人たちに強い規制を加えていたのである。また幕府がみずからを〈関東〉といい,王朝の用語では九州を指す西国(さいごく)の語を,畿内近国・九州全体を含む地域(鎮西探題成立前の六波羅探題管轄地域)を示す語として早くから用いたことは,この地域をみずからの基盤である東国と異質な地域とみなす意識が,幕府自体にはっきりと存在したことを物語っている。…
※「異年号」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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