デジタル大辞泉 「白洲正子」の意味・読み・例文・類語 しらす‐まさこ【白洲正子】 [1910~1998]随筆家。東京の生まれ。次郎の妻。幼少より能を習い、当時は女人禁制とされていた能舞台に女性演者として初めて立った。「能面」「かくれ里」で読売文学賞を二度受賞。能のほか、古美術や古典文学に関する著作が多い。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「白洲正子」の解説 白洲 正子シラス マサコ 昭和・平成期の随筆家,評論家 こうげい社社長。 生年明治43(1910)年1月7日 没年平成10(1998)年12月26日 出生地東京・永田町 旧姓(旧名)樺山 学歴〔年〕女子学習院卒,ハートリッジ・スクール(米国)〔昭和3年〕卒 主な受賞名〔年〕読売文学賞(研究翻訳賞 第15回)〔昭和38年〕「能面」,読売文学賞(随筆紀行賞 第24回)〔昭和47年〕「かくれ里」,東京都文化賞〔平成3年〕 経歴4歳より梅若宗家で能を修業し、女性として初めて能楽堂の舞台に立った。女子学習院卒後、父・樺山愛輔(旧伯爵)に従って14歳で渡米し、寄宿制のハートリッジスクールを卒業。昭和4年19歳で結婚。帰国後も能の稽古を続けるとともに、日本の風土や宗教、美術工芸などを広く追求。戦後、小林秀雄、青山二郎らの文士集団・青山学院に入り、文学修業。18年「お能」を処女出版。「道」「きもの随筆」「忘れ得ぬ人」「明恵上人」「西行」「かくれ里」「老木の花・友枝喜久夫の能」などの他、能楽、芸術関係の著書や「白洲正子自伝」、夫の伝記「風の男 白洲次郎」などがある。平成13年旧邸が記念館「武相荘」として開館。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
百科事典マイペディア 「白洲正子」の意味・わかりやすい解説 白洲正子【しらすまさこ】 随筆家。東京都生れ。父は実業家・政治家で伯爵の樺山愛輔(かばやまあいすけ),夫は実業家で吉田茂の側近として活躍した白洲次郎。1924年に女子学習院初等部を修了。梅若流の能を学んでいたため,同年女性として初めて能舞台に立つ。その後,アメリカのハートリッジ・スクールに留学。第2次世界大戦後は早くから評論家の小林秀雄,骨董(こっとう)の目利き青山二郎らと親交を結び,文学や骨董の世界に切り込んだ。この当時の東奔西走する姿を,青山二郎は〈韋駄天(いだてん)お正〉と命名したという。その〈健脚〉ぶりは晩年になっても衰えず,自分の眼で見,直接足を運んで執筆する姿は,終生変わらぬ基本姿勢であった。著書は《お能》《かくれ里》《謡曲・平家物語紀行》《西行》《白洲正子自伝》《両性具有の美》など多数。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「白洲正子」の解説 白洲正子 しらす-まさこ 1910-1998 昭和-平成時代の随筆家。明治43年1月7日生まれ。樺山(かばやま)愛輔の次女。白洲次郎の妻。女人禁制の能舞台に演者としてはじめてたつ。昭和18年「お能」を刊行し,「能面」「かくれ里」で読売文学賞を2度受賞。古美術,古典文学,紀行などはばひろい分野で活躍。平成10年12月26日死去。88歳。東京出身。アメリカのハートリッジ-スクール卒。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「白洲正子」の解説 白洲 正子 (しらす まさこ) 生年月日:1910年1月7日昭和時代;平成時代の随筆家;評論家1998年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by