現代の社会通念では、陶磁鉢その他の器物に植えた草木が、自然の景観から受ける豪壮、佳麗(かれい)、繊細などの感興を表現する場合を盆栽とよび、植物体本来の形、色、香りなどを直接的に観賞する、いわゆる鉢植えと区別する。そのような概念の分化は、1887年(明治20)ごろ一部の人々の間に発端し、その後ほぼ40年を要して通念化した。
中国では、古来、盆栽の文字は通用せず、かわって、唐代の「盆花」、その後の「盆景」が、広義の盆栽(盆栽と鉢植え)にあてられてきた。
[岩佐亮二]
盆栽は中国に生まれ、日本へは遣隋使(けんずいし)・遣唐使に始まる中国の先進文化導入の過程でもたらされたと考えられる。
中国、唐第4代皇帝中宗が、亡兄章懐太子(しょうかいたいし)李賢(りけん)のために営造した陵墓(704)に残る壁画には、宮女、下人の捧持(ほうじ)する盆花3点(黄釉(おうゆう)、白磁などとみられる平鉢の石付き盆栽)が描かれ、また緑釉の深鉢1点も出土した。中唐の詩聖白楽天(はくらくてん)は、洛陽(らくよう)に構えた住宅につき、「新葺(しゅう)新居」を詠み、そのなかに、「(秋末)盆花を暖室(低設温床=地窖(ちこう))に入れる」との詩句を挟んで、当時の呼称と冬の酷寒過乾からの保護法を記録した。北宋(ほくそう)代の鈞窯(きんよう)と如窯で焼成された花盆の名品が故宮博物院(台北)にあり、宮廷とその周辺で盆栽賞玩(しょうがん)が盛行していた事情を推察させるが、後年の南宋における盛況は、『呉興園林記』『武林旧事』その他の紙面に載った。
なお、日本と南宋の間には平安末から鎌倉時代にかけて、商人・僧侶(そうりょ)をはじめとする人々の頻繁な往来があり、その過程で禅宗と南宋の深遠な文雅(文人の高雅な境地と超俗自然賛美の思潮)が色濃く伝えられ、多彩な展開をみた。
日本の史料上では、晩唐にあたる平安初期、「承和(じょうわ)6年(839)5月、河内(かわち)志紀郡の百姓志紀松は、庭に生ずる高さ2寸余の橘(たちばな)が花をつけたので、土器に植えて、(瑞徴(ずいちょう)として仁明(にんみょう)天皇に)献上した」(続日本後紀(しょくにほんこうき))との記録に始まり、中期には、長櫃(ながびつ)(衣服などの格納箱)にススキ、ハギなどを植えて観賞し贈答する風習が、宮廷人の間で盛行した(蜻蛉(かげろう)日記、枕草子(まくらのそうし))。後期にあたり、堀河(ほりかわ)天皇の治世、白河(しらかわ)上皇は、鳥羽(とば)院で、「作り花」(長櫃に配植したハギ、ススキなど)のできばえを競う一種の「前栽合(せんざいあわせ)」を催した(古今著聞集(ここんちょもんじゅう))。
[岩佐亮二]
そうした世情のなかで、鎌倉時代初頭(1200ころ?)に描かれた『西行(さいぎょう)物語絵巻』が、方丈(ほうじょう)(住職の居住棟)の縁先を飾る「盆山(ぼんさん)」(石付き盆栽の古称)を写し留めたことは、場所としての寺院、様式としての石付きの二面で、盆栽が登場した由来を雄弁に物語る。
鎌倉時代のなかば過ぎ、宋僧鏡堂覚円は、円覚寺(えんがくじ)の開山(かいざん)無学祖元の侍者として来日したが、覚円は水盤中に据えた水石のくぼみに生ずるセキショウ(石菖)の風趣を賞して、「碧玉盤(へきぎょくばん)中水石間……」とする詠懐『盆石菖(ぼんせきしょう)』を残した。その碧玉盤は浙江(せっこう)の竜泉窯で焼成する和名砧(きぬた)青磁である。なお、その竜泉磁は、平安末から室町時代にかけて多量に輸入されていたが、1976年韓国新安沖の沈船(元船、1323年に難破)から引き上げられた日本向けの多量な陶磁中に介在する多様な竜泉鉢は、改めて往年の事情を想起させる。
なお、鎌倉中期から室町時代末まで盛んであった五山(ござん)文学の文面に散在する『盆松・盆梅・盆石菖』その他の詩文は、禅林内でひときわ栄えていた盆栽賞玩の高風を傍証する。なお五山文学草創のころ、「盆栽」の文字も紙面に載ったが、それが通用し始めたのは江戸中期であった。
鎌倉時代末に完成した絵巻、『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』(歓喜光寺本)、『法然(ほうねん)上人行状絵図』(知恩院本)、『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』には、符節をあわせて、盆山と鉢木(はちのき)(石を添えない盆栽)が描かれ、さらに続く南北朝時代にもずれ込んで、『祭礼絵草子』、『本願寺聖人(しょうにん)伝絵』(弘願(ぐがん)本)、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』の画面にも載った。そのような世情のなかで、鎌倉末の随筆文学『徒然草(つれづれぐさ)』は、公家(くげ)日野資朝(すけとも)が一時期ことさらに曲折のある木を鉢に植えた旨を記し、室町幕府の3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)のころとされる謡曲『鉢の木』は、想定した辺境の郷士に仮託して、受け入れ階層、樹種の多様、行き届いた手入れを曲譜に上らせた。
8代将軍足利義政(よしまさ)は、青壮の一時期、盆山に凝り、しばしば五山その他の寺僧が培養する盆山を御所に提出させ、そのなかのいくつかを手元にとどめて観賞し、ときに改作の手を加えた。それらは、水をたたえた浅い木箱(古称、船)に据えた岩上のミヤマビャクシン・ゴヨウマツ・サツキ(?)、青磁(竜泉磁?)・青銅(古称、古銅)・真鍮(しんちゅう)(鍮石(ちゅうじゃく))の平鉢に配したセッコク・トクサ・キボウシ・ウラハグサ(?)の石付きなどであった(『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』)。上記の船はさておき、青磁と銅器の平鉢は、勘合貿易による当時の渡来品に、一部、歴代の支配者に由来する伝世品が加わったとも考えられる。前記した『日録』が「空(から)鉢をお蔵(くら)に遣わす」とした条章に、ひときわ貴重視していた義政の姿勢が秘められていた。
[岩佐亮二]
江戸時代の園芸は、将軍徳川家康・秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)が無類の花好きであったことを受けて、大名・旗本による追随、珍花の入手と献上が時流として進展し始めた。加えて、家光の治世に制度化された参勤交代は、各藩が互いに珍花奇木を競い合う場を形成した点で、奇を追い異を求める潮流を派生した。一方庶民の側も、元禄(げんろく)(1688~1704)のころまでには、世情の安定、生活の向上などを背景に、お上(かみ)に倣ったので、園芸上の前記した時代色は、上下各層を網羅して、意表を絶するまでに激化していった。そのあげく、江戸文化を特徴づける庶民性が、退廃性をはらんで、爛熟(らんじゅく)の極に達した寛政(かんせい)・享和(きょうわ)・文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)期(1789~1830)には、奇品に一攫(いっかく)千金の夢を賭(か)ける投機が世上に横行した。焦点のカラタチバナとオモトの貴品には、100両から300両(およそ500万~1500万円)の法外な呼び値がつけられた。そのような狂騒のなかにあった好事家(こうずか)は、奇品の評価に見合う精良高価な鉢を欲したので、量産を誇る瀬戸焼は、寛政(1789~1801)のころには浮彫り・釘(くぎ)彫りの陶器鉢を、陶器を磁器に改めた享和(1801~1804)以降には、手のこんだ染付鉢(そめつけばち)を焼成した。そうしたなかで、先進地伊万里(いまり)でも染付鉢を市販し、また京焼の磁器鉢と軟質陶器の楽焼鉢も市中に出回った。
江戸市中の盆栽は、この時代前半のころまで、名実ともに室町・安土(あづち)桃山時代の延長であったが、その後は、世上の奇品熱を受け入れる形で、奇異な整姿形(蛸(たこ)作り、根上り、篠(しの)作りなど)と奇品用の華美な深鉢の供用へと進み、浮世絵、風俗誌などにみられるように、総じて、現代の盆栽に求められる風趣は考慮の外にあった。
[岩佐亮二]
そのような大勢とは別に、江戸中期のころ、上方(かみがた)(京・大坂)に参集する在野の高識者は、遅まきながら、中国文人流の境地(文房清玩(ぶんぽうせいがん)・琴棋(きんき)書画の雅境)を、明(みん)末の『考槃(こうはん)余事』、清(しん)初の『秘伝花鏡』、『芥子園画伝(かいしえんがでん)』(南宗画の絵手本)その他によって構成し、世上一般の盆栽とは異質な簡雅を旨とする盆栽(文人盆栽、文人植木)を書斎(文房)の机上に飾り、煎茶(せんちゃ)にまつわる深遠な興趣に浸った。なお盆栽の呼称は、その時点で『秘伝花鏡』の紙面から新知識として広まったと推察される。
[岩佐亮二]
明治維新(1868)後、新政府の要人に登用された勤王派の公家(くげ)、大名、志士は、かつて王政復古に奔走していた上方で身につけた煎茶の雅境を新首都東京で体現するため、摂津の池田地域で養成する文人盆栽を取り寄せた。そこに始まった文人盆栽への志向は、文明開花、欧風化に走る世情の裏側で急速に展開し、皇族、華族、権臣などの上層階級に、続いて、新たに台頭してきた財閥の当主、中小企業主の間に、地位の象徴として浸透していった。
1878年(明治11)に来日した美術評論家アーネスト・フェノロサは、文明開化・神仏分離の余波が廃仏棄釈へと激化した世情のなかで、岡倉天心と協力し、日本人が自国の文化遺産に開眼することを願って、美術運動を意欲的に推進した。その時流に添った一部の盆栽家は、文人盆栽の簡雅素朴な姿態を、『芥子園画伝』の紙面に即して向上させることに思い至り、その成果を、1892年に開いた、その名もずばりの美術盆栽展として披露した。中国の江蘇(こうそ)から輸入する宜興(ぎこう)盆(和名、泥物(でいもの)鉢)の真価を生かすその美(芸)術盆栽が世人の関心を集めるなかで、『萬朝報(よろずちょうほう)』の主筆生島一(いくしまはじめ)らは、『画伝』にかわる整姿の手本として、多様な自然の樹形をとり、そこに後人小林憲雄(としお)が名づけた自然美盆栽と、主木に下草を添える方式の兆しとを、1897年ごろに発端させた。それは現代の盆栽がもつ多様な範型と席陳列法の発足であった。19世紀末におけるそのような転進を背景に、盆栽人口が急増し、各地で、業者を中心に同好会が結成され、続いて2、3の機関誌が発刊された。のちに雑誌『盆栽』(1921発刊)を主宰した小林憲雄は、誌面により、また公開の展示会をしばしば催して、盆栽の資質向上と啓蒙(けいもう)に傾倒した。また、彼は、盆栽にわが国固有の生きた芸術との意味をもたせて、1934年(昭和9)、いまに伝わる盆栽界最大の行事国風盆栽展を、上野の美術館を会場として創始した。
[岩佐亮二]
日本の盆栽は、幕末の開港を機に、世界的規模で展開されていた植物探査(プラントハンティング)の波にのって西欧に運ばれた。しかし、それらの奇異を誇示する姿態は、盆栽になじみがなかったことを背景に、「自然に反する奇異なもの」との軽侮を招き、ただ樹齢だけが、盆上に傾注した長年の労苦として、印象に残った。しかし、その後の日本では、美術盆栽、自然美盆栽へと向上し、西欧人もしだいになじみをもってきたので、評価は徐々に好転していった。その好評を改めて世界的に定着させたのは、第二次世界大戦後日本に駐留した各国の将兵であった。東京オリンピック(1964)と日本万国博覧会(1970)に際して来日した世界各国の人々は、特設された盆栽水石の名品展を訪れ、帰国した将兵の土産(みやげ)話に発する盆栽へのあこがれを、決定的に充足させた。なお、その充足の裏には、自国にはかつて存在しなかった日本人的な芸術観――自然の素材に備わる本性に即しながら、わずかに手を加えて、美的感興を盛るという次元の高い精神的領域への開眼が秘められていた。国際語BONSAIは来訪者の受けた深い感銘に源泉した。
近年、世界の各国各地で、盆栽愛好家が輩出し、多数の同好会が結成され、また先年のアメリカ建国200年祭にあたり、先方の要請をいれて、盆栽水石の名品が贈られた(1975)などの事態は、盆栽の地球的規模の展開を表徴するものである。
[岩佐亮二]
盆栽を分類するには3種の分け方がある。〔1〕樹種によって分ける方法、〔2〕樹形によって分ける方法、〔3〕大きさによって分ける方法である。
〔1〕樹種別分類 のように分けられる。
〔2〕樹形による分類 これは盆栽が発生、発達の歴史を経て多くの樹形がつくられたのちに、便宜的に行われたものである。
直幹(ちょっかん) 盆栽樹形の基本となるもので、太幹豪壮から細幹優美なものまで幅がある。
模様木(もようぎ) 幹に自然な曲線をもった樹形で絶対数は多い。
株立(かぶだ)ち 狭い範囲から数幹が立ち上がってしかも1個体から成り立っているもの。森林を象徴することもある。
根連(ねつらな)り 1個体から成り立っているが、広い範囲に多くの幹が立ち上がって森林を形づくっているもの。
半懸崖(はんけんがい) 崖(がけ)から乗り出した木の姿を表した樹形で、木の下端が鉢の上端よりも高いものをいう。
懸崖(けんがい) 崖から乗り出した木の先端が鉢の上端よりもさらに低く垂れているものをいう。
寄植(よせうえ) 数個または数十個体を用いて森林を表現するもの。むずかしい約束事を知らなくてもだれにでも理解しやすい。
箒立(ほうきだ)ち 立上りはほぼ直幹で上部は放射状に枝を広げた形。代表的な樹種としてケヤキがあげられる。
蟠幹(ばんかん) 幹が捻転(ねんてん)して複雑な姿をした樹形。風雪などの影響を受けた厳しい姿。
斜幹(しゃかん) 風や他の木、崖などの影響で幹が斜めに傾いた樹形。
吹流(ふきなが)し 強風の影響で一方にだけ育った姿。単幹、多幹いずれにもみられ、近代に創出された。
双幹(そうかん) 幹が下から2本に分かれて育った姿。直幹、曲幹いずれもみることができる。
三幹(さんかん) 幹が元から3本に分かれている樹形。各幹のバランスがうまくとれるとすばらしい。
根上(ねあが)り 根の周囲の土砂が流亡して根が露出した樹形。樹の生命力の強さを想像させる。
石付(いしつ)き 崖や嶋(しま)に樹木が生存する姿を表現した樹形。種々の変化があり、石の上だけで生活するもの、石から鉢に根を下ろすものがある。
文人(ぶんじん)盆栽(文人木(ぶんじんぎ)) 一種の心象表現樹形ということができ、自由形ともいえるが、一般には軽妙洒脱(しゃだつ)な樹形と解釈されている。
〔3〕大きさによる分類 本質的には大きさによる分類はたいした意味はないが、培養、運搬、陳列などのうえで実際には分けられる場合が多い。
(1)大形盆栽 地上部の高さが50センチメートル以上のものをいい、樹形により多少の例外もある。
(2)中形盆栽 地上部が30センチメートル以上、50センチメートル以内をいう。
(3)小盆栽 地上部が10センチメートル以上、30センチメートル以下をいう。
(4)小品(しょうひん)盆栽(小物(こもの)盆栽、豆盆栽) 地上部が10センチメートル以下のものをいう。
[中村 享]
盆栽の培養、整姿を行うには各種の資材が必要で、そのために開発されたものが少なくない。
〔1〕用具 まず太根、太枝を切る小型の鋸(のこぎり)、順に剪定鋏(せんていばさみ)、中型剪定鋏、芽摘み鋏(葉透かしにも用いる)、針金切り大小、やっとこ、てこ、神(じん)作り、又枝切り大小、こぶ切り各種、のみ各種、ピンセット、根切り鎌(かま)、根ほどきレーキ、切出しナイフ、土入れ、箒(ほうき)、篩(ふるい)、如露、回転台などがある。
資材には鉢をはじめ、石付き用の石、平石、整姿用針金、底網、肥料、各種用土がある。又枝や幹の剪定切り口に塗って保護・癒合を促す各種の癒合剤もある。
〔2〕用土 盆栽の用土は各資材のなかでももっとも重要なものである。用土は盆樹を鉢に固定するほか、水分・養分を保持し徐々に盆樹に供給する役目を果たす。また用土中の微生物、化学物質の働きにより外部から供給される養分を植物の吸収しやすい形に変え、盆樹の生育を助ける。
用土の粒子の大小、用土の種類により、盆樹の生育の調節が行われる。すなわち、小粒の用土は毛細根の発生を促し、それは小枝を多数発生させる働きもする。粗い粒子の用土は少数の太根をつくり、枝を粗くする。固い用土は木質部を固くし、皮肌を粗剛にする。このように用土は、盆樹のたいせつな観賞点である樹姿に大きな影響を及ぼすのである。したがって盆栽の用土は盆栽の本質と深くかかわっているといえよう。
近年盆栽の急速な流通と知識の普及、用土運搬の容易化などの原因から、他地方の用土を購入し、土地の用土と混合してそれぞれの長所を生かした使用が多くみられるようになった。
各地に産する用土をあげれば次のようになる。
赤玉土(あかだまつち) 関東一円に産する火山性の赤土で、砕いてふるい分けて使用する。固さ、含水、含肥性が適度ですべての樹種に好適する。目的に応じて他の用土と混用されるが、産出量、品質ともにもっとも信頼性が高く、最上の用土である。
鹿沼土(かぬまつち) 栃木県の鹿沼地方に産し、黄褐色、乾くと黄白色となる。水をよく含み通気性のよいところから挿木用、ツツジ科の植物にはとくに賞用される。
桐生砂(きりゅうずな) 栃木県産で、褐色で乾くと黄褐色となる。固さは赤玉土、鹿沼土よりも固く、水も含み排水もよい。単用されることは少なく、赤玉土などと混用される。
富士砂(ふじずな) 富士火山の溶岩の風化したもので赤玉土と混用される。紫黒色のもの、赤褐色のものがあり、山草の培養に多く用いられる。
矢作川砂(やはぎがわすな) 愛知県矢作川産。白色石英質の角のある砂である。重量があり産地ではすべての鉢物に単用されているが、木肌の荒れ方が早いので軟質の土と混用すれば大部分の樹種に向く。
ボラ 九州地方および東北地方の一部の火山産で、乾燥すると軽く、鹿沼土とよく似た性質である。九州地方ではもちろん多用されているが、運送に軽便なので各地方で使われている。
以上のほかにも各地方のみで用いられている多種類の土、砂がある。
人工用土 天然の用土のほかに土を焼いて固くした多孔質のボール状のクレイボール、蛭石(ひるいし)を焼いたバーミキュライト、パーライト、各種のプラスチック製品、鉱滓(こうさい)製品なども実用化されており、これらはとくに空気の含有率の点で優れている。
[中村 享]
盆栽の培養と整形は車の両輪である。いずれが欠けても完璧(かんぺき)な観賞価値は生じない。また、この両者は互いに不可分の関係がある。
〔1〕培養 盆栽の培養上たいせつなことは日常的には灌水(かんすい)、施肥、薬剤散布などであり、季節的には植替え、芽摘み、剪定、葉透かしなどがある。
〔2〕整姿 盆栽の観賞点に(1)根張り(地上にしっかりと張った根の姿)、(2)幹模様(幹の屈曲の変化と下から上へ順に細くなるようす)、(3)枝配り(枝の配置や角度)があり、姿に変化を与え、観賞価値を左右する。
盆栽には種々の約束事があり、よく理解するためにはこれらを理解したほうが早道である。盆栽が観賞される位置として正面を決める。正面とは、その盆栽の総合的にもっとも観賞価値を認められる位置である。正面を決めるために容易な方法として「100点法」を考案してみた。つまり、正面を決める四つの要素、根張り、幹模様、枝配り、前傾姿勢のもっともよいところを各30、30、30、10点とし、周囲から検討して総合点のもっとも高い位置を正面とするのである。
〔3〕素材 古くから「種木(たねぎ)7割」といわれている。盆栽のできは70%が素材にかかっているというのである。よい種木とは健全であること、人をひきつける多くの美点をもつこと、根張り、立上り、幹模様がよく、枝数が多く、かつよい位置にあること、また幹は上に行くにつれて徐々に細くなり、間延びせず大きな傷がないこと、葉性、皮性がよく萌芽(ほうが)力が強いことなどである。
〔4〕樹形作りの基本 素材は、その長所を最大限に生かし、かつ欠点を少なくするように設計し、剪定、整姿を行って目的の形に近づける。剪定を行うときの目安として、忌枝(いみえだ)がある。
[中村 享]
(1)季節感および樹種の特徴をみる 花、実、新芽の美しさ、紅葉など、素材となる植物の特徴がよく発揮されていることがたいせつである。
(2)培養状態 つねに健全であることはすべてに優先する。病的なもの、奇形的なものは正統盆栽では尊重されない。
(3)樹形の構造 盆樹の骨組みは木筋(きすじ)ともいわれ、盆栽の根幹となるものである。葉物(はもの)、花物、実物(みもの)などでも落葉期に観賞されることがあり、しかも十分な観賞価値を要求される。
(4)鉢映り、陳列様式と付属品 盆栽は植えられる鉢との調和がたいせつで、これを鉢映りという。盆樹に対する鉢の大きさ、形、色彩、肌合いがたいせつである。また盆栽を観賞する場合、一定の場所に盆栽と調和した卓にのせ、添え物となる草物、水石などを地板にのせて、ときにはさらに掛軸などとともに飾られる。それら全体が支配する空間を観賞するのである。
(5)時代 盆樹、鉢、付属品などに表れる古色を時代とよび、枯淡な味が観賞の対象となる。古くからいわれるわび・さびの境地に通ずるものである。
[中村 享]
『岩佐亮二著『盆栽文化史』(1976・八坂書房)』▽『『盆栽大事典』(1983・同朋舎出版)』▽『日本盆栽協会編・刊『盆栽ハンドブック』(1980)』▽『ガーデンライフ編『図解盆栽の地域別手入れ暦』(1982・誠文堂新光社)』▽『中村享著『はじめての松柏盆栽』(1981・主婦と生活社)』▽『大山玲瓏著『盆栽の仕立て方』全6巻(1971・泰文館)』
盆栽は一般の草花の〈鉢植え〉とは観賞目的を異にするものである。草木を小さい器物に植栽し,その生育する力を利用して,適切な培養と矯姿を行い,長く生命を持続させて,〈自然美〉を表現させるのであるが,さらに〈天然自然以上の自然美〉をかもし出させて,これを室内の観賞物とするもので,日本で独自に創始された芸術である。鉢植えと盆栽との相違点は盆栽が草木を小器物に培養して〈自然美〉を観賞するものであるのに対し,鉢植えは草木を鉢に培養して,その花や葉または果実の〈植物美〉を観賞するものであるというところにある。鉢植えはただ美しい花や葉を観賞するために,その目的に適する草木が選ばれて培養されるが,盆栽では草木に〈自然の情趣〉を表現させるのである。その自然美の表現は深遠広大であって,自然のすべての現象がことごとくつながりをもっているのである。それがわずか一尺にも足りない小樹であっても,天を摩して直立する老巨木を目の前に見るような境地にわれわれをいざない,いろいろな連想を呼び起こさせる。たとえば,枝のあたりに白雲が去来し,月明の夜にそそり立っているところを想像するときは,天空をおおうような巨木の姿が浮かんでくるであろうし,その樹下の広野のさまざまな景観もしのばれるであろう。高い絶壁に懸垂したような姿のものに対するときは,そのがけの下を流れる清流に思いを及ぼすことができるであろう。盆栽の樹姿は一つとして同じものがない。小さい林,大きく深い林,深い山と大きな沢,あるいは神社や寺の老樹・巨木などいろいろであり,また1本の草の葉かげにも,1本の枝の先端にも,虫の声や鳥のさえずりが連想され,その感興をほしいままにすることができるのである。
盆栽の最も古い文献としては,鎌倉時代に作られた《春日権現験記(かすがごんげんげんき)》や《法然上人絵伝(ほうねんしようにんえでん)》があり,そこに盆栽の図が描かれている。その図は,山野の草木の,自然態に整えられたものが,器物に植えて庭のたなに置かれているが,これは盆栽的な観賞である。絵巻の作られたのは鎌倉時代であるが,題材は平安時代の生活風俗を写したものであるから,その当時すでに盆栽的に観賞が行われていたことと思われる。下って《徒然草(つれづれぐさ)》にも,さまざまの樹木を集めて器物に植えたことが記されており,謡曲《鉢の木》ではウメ,サクラとともにマツが〈鉢の木〉とされているが,これらによって見ても,盆栽的な観賞が引きつづいて行われていたことがわかる。江戸時代には,一般の花物や斑入り葉物の鉢植え園芸は大きな進歩を示したが,盆栽の進歩には特筆すべきものがみられなかった。江戸時代の末期に至って,文人趣味が流行し,文人画的な風趣を盆樹に表現させることが行われ,〈ぼんさい〉という名称もこの時代から起こり,独自の観賞態度がはっきりと整えられるようになり,盆栽の観賞に一時期を画したのであった。ところが一方では,奇形の樹木や珍奇な形態の短小な姿の樹木の鉢植えを盆栽であるとするような俗風も盛んとなり,盆栽の真の意義が誤られるようになっていた。しかし,不自然な形態の樹木を珍重するという誤りはしだいに是正され,自然美を基調とする盆栽は明治末期以来急速に進歩した。1914年には東京日比谷公園の特設会場において,全国から集められた本格的な盆栽の大展覧会を開催するほどの普及と進歩がみられた。この展覧会はその後6回継続される。34年には上野公園の東京府美術館において,〈芸術盆栽〉をモッ(かい)トーとする国風盆栽展覧会が小林憲雄によって始められ,その後,回を重ねた。64年には任意団体として日本盆栽協会が結成され,翌年には社団法人日本盆栽協会(初代会長吉田茂)が発足した。また74年には門外不出とされていた〈皇居の盆栽展〉が開催され,来会者数15万人という未曾有の盛況であった。とくに第2次大戦後は外国で愛好者が急増し,アメリカでも大きな展覧会がしばしば開催されている。
盆栽は本来天然自然物であり,また培養によって養作するものも,一定の型にはめることをしない。それは,野外の樹木にけっして同一のものがないのと同じことである。しかし観賞のうえから,それぞれの樹形を形容する次のような分類的名称が慣用されている。(1)直幹(ちよくかん) 幹が高く直立した形。平地に何のさわりもなく大空高くそびえたつもの,うっそうとして林立するもの,すくすくと垂直に立つ木の形で,若木は盛んな生長の勢いがあり,老樹・巨樹には荘厳さがある。(2)斜幹 幹が傾斜して立つもの。おおむね傾斜地の樹木の姿である。そのために〈半懸崖(はんけんがい)〉ともいわれる。(3)懸崖 幹がその基部から屈折して,鉢の外に懸垂して,断崖に懸垂する樹木の状態をなすもの。(4)蟠幹(ばんかん) 幹が前後左右にはなはだしく屈曲したもの。海岸や風の強い岩の上などに,高く伸びることができず,うねうねとまがった樹形をいう。幹が蟠幹ほどではないが多少曲がっているものを模様木(もようぎ)という。
幹の数によるものでは次のようなものがある。(1)株立ち 1株から2本以上の幹を立てたもの。2本を〈双幹〉といい,3本以上はその幹の数に従って〈三幹〉〈五幹〉〈七幹〉などという。(2)根連り(ねつらなり) 1本の根が地をはい,随所にそれから生じた幹を立てたもの。各幹が一つの根につながりをもつために,各幹が斉一の状態を呈して斉一美を示すのを特徴とする。(3)筏吹(いかだぶき) 1本の幹が地に倒伏し,その枝が立ち並んで幹となったもの。樹勢が斉一美を示すことは根連りと同じである。(4)寄植え 2樹以上を寄せ合わせて一つの景観を作り出したもの。同じ樹種ばかりを寄せ合わせたものと,異なる樹種を寄せ合わせたものとがある。寄植えは造景にはたいへん便利であるが,個々の樹力に相違を生じ,斉一美を持続させるのが困難になる欠点がある。(5)石付 樹木を石の上に植えて樹石総合の自然美を作り出すもの。各種の樹種が用いられ,単栽・複栽さまざまである。
このほかに捌幹(さばみき),根上り(ねあがり),吹流しなどさまざまの形式があり,また花木,果樹などによる別もある。また草も盆栽的な自然観賞に仕立てることができる。
培養の問題のおもな要点をあげると,用土,植え方,灌水のしかた,施肥,整姿,置場,病害虫の防除などである。
(1)用土 盆栽に用いる土は,最小限の土をもって土のもつ力を最大限に発揮させねばならない。いろいろな土が用いられ,また材料の関係から地方によって一様ではないが,要するに,最大の保水力をもち,かつ通気性の良好なものが選ばれる。いま一般に最上とされているのは,火山土性の赤土である。耕作土壌より深い地層から掘り出された赤土塊を砕いて径1mmくらいの粒とし,これに軟質の砂を20%くらい混合したものが標準植土として用いられているが,各樹種によって混合率が調節される。たとえば針葉樹類は赤土粒60%,軟砂40%くらいを混合し,果樹,花木,広葉樹類は砂を少なくし,さらに腐葉土10%内外を混ずる。このように植土を一定の細かい粒状にして用いることは,通気性をよくすることはもちろんであるが,ちょうど海綿が多くの水を保有するのと同理であって,土砂に一定の小さいすきまを多くつくり,これに十分灌水すると,そのすきまの空気を追い出して水が充満し,大量の水を保有するために,灌水の度数を少なくすることができる。また樹木の吸水と日射や風などで水分が失われると空気が水に代わって土粒間に浸入し,つねに水と空気とが土粒間に新陳代謝して植物の根の生理を助け,その活動を十分にする。なおまた軟砂および赤土粒そのものも水を吸収して保つので,極端なる乾燥を防ぐことができ,鉢の中の樹木の枯死を免れさせる力ともなる。以上は一般の標準土であるが,このほかにミズゴケ,ヤマゴケ,オスマンダなどを用いる異例もあり,また大量の水を含む軽くてきめのあらい粒土,鹿沼土(かぬまつち)が使用されることもあり,石上植樹(石付)を作るには〈ケト土〉と称する草炭が用いられる。
(2)植替え 限られた最小限度の土では土のもつ天然の力はたちまち尽きてしまう。植物の栄養として必要な窒素,リン,カリは肥料として補給することができるが,三要素のほかに必要な微量要素は,土壌中に自然に含まれてはいるけれども,それはすぐに吸収されてしまうから,新しい土で更新しなければならない。なおまた狭い鉢内には根がはびこりつくしてしまうから,活動力のない古い根を除いて新しい根の発生を容易にするために植替えを行わねばならない。植替えは植物が冬眠からさめて活動を開始する際に行うのが普通であるが,樹種によっては秋季に行われるものもある。植替えの度数は樹種によって異なるが,一般に,常緑針葉樹(松柏(しようはく)類)は4~5年に1回,花木・果樹類は毎年1回,広葉樹類および山野の雑樹類は隔年1回(ケヤキ,モミジ)行われる。
(3)植替えの方法 鉢底の排水通気孔は土砂の漏れない排水と通気のよい被覆物をあて,底部には崩壊しない土粒あるいはれき(礫)を敷くことが必要である。その粒の大きさはダイズ大,アズキ大がよい。そして,その上に前記の用土を入れて,植付けをする。植付けの位置は,鉢と樹木とのバランスをとることが最も意を用いなければならない点であって,普通の鉢植えが中心植栽によっているのと異なるところで,盆栽のみにみられる植栽技法といわねばならない。
(4)灌水 乾けば注ぐことで足りるし,余分の水の排出をよくしてあるならば過湿の害はないが,過乾には注意しなければならない。植栽用土に保水力が大きければ,これに飽和状態に達するまで水を含ませておけば,真夏の干天でも朝1回の灌水で十分である。雨後の日の晴天には1回の灌水も不要である。灌水は,十分に与えておけばその度数を少なくすることができる。これは盆栽培養を簡便にする要点である。春,秋および冬は,乾けば注ぐ程度にとどめ,隔日または数日に1回で足りる。
(5)肥料 最小限の土に生き続けるのであるから,必要な養分はすぐに欠乏する。それゆえこれを補わねばならないが,三要素のうち最も多く要するのは窒素,次はリンで,カリは少量で足りる。そして化学肥料よりは有機質の動植物性の肥料が良い。それにはナタネ油かす,骨粉,魚肥などが用いられる。施肥の量は,過肥はかえって有害であるから,控えめにしなければならない。松柏の類は秋の彼岸にただ1回与えるだけでもさしつかえないが,果実の実ったものなどは,その肥大成熟期には数日に1回くらい施す必要がある。盆土の量より果実の量のほうが多いといわれるほどに豊富に結実させるものなどは,盆樹が摂取しうる極度の栄養を土に補給しなければならない。
(6)整形 盆樹はそのままで美しい姿となることができない。幹枝は針金を巻き,そのらせんの力を利用して矯姿し,枝条は徒長するものの剪定(せんてい)によって乱れる姿を整えていく。
執筆者:小林 憲雄
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(森和男 東アジア野生植物研究会主宰 / 2007年)
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1936- 昭和後期-平成時代の女優,声優。昭和11年10月16日生まれ。昭和32年俳優座養成所をでて,テレビ界にはいる。NHKの「ブーフーウー」で声優としてみとめられ,54年テレビアニメ「ドラえもん...
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