相賀荘(読み)おうがのしょう

百科事典マイペディア 「相賀荘」の意味・わかりやすい解説

相賀荘【おうがのしょう】

紀伊国伊都(いと)郡にあった荘園。現和歌山県橋本市のほぼ西半分を荘域とし,中央を流れる紀ノ川によって南北に二分される。当地はもと陸奥守女子藤原氏の所領で,在地領主坂上豊澄が現地の実権を握っていたが,1132年高野(こうや)山の僧覚鑁(かくばん)がこの2人から寄進を受け,鳥羽院庁の支援を得て住房密厳(みつごん)院領とし,翌年には不輸不入の荘園として正式に認められた。覚鑁は豊澄を下司(げし)に補任して経営を開始したが,東隣の山城石清水(いわしみず)八幡宮隅田(すだ)荘,西隣の高野山領官省符(かんしょうふ)荘との争いが長く続き,安定はしなかった。官省符荘との相論の背後には高野山での金剛峯(こんごうぶ)寺と密厳院の争いがあったものとみられる。承久の乱後,大田馬允が当荘地頭に補任されたが,1222年に停止され,以後地頭は置かれなかった。1333年高野山の主張に添う後醍醐天皇勅裁により,当荘のうち紀ノ川以南は高野山領に組み込まれ,密厳院領は河北に限定された。河北(相賀北荘)についての以後の動向は不明。高野山領となった河南(相賀南荘)の経営も南北朝内乱のなかで軌道に乗らなかったが,1395年ようやく検注を実施するに至り在家(ざいけ)数85宇,田30町余・畑49町余と記録されているものの,その後の展開は明らかでない。

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改訂新版 世界大百科事典 「相賀荘」の意味・わかりやすい解説

相賀荘 (おうがのしょう)

紀伊国伊都郡(現,和歌山県橋本市)の荘園。荘域は紀ノ川をはさんで北は河内国堺より南は高野山麓におよぶ。1132年(長承1)陸奥守女子藤原氏と現地の豪族坂上豊澄の寄進,および鳥羽上皇の外護によって,高野山の僧覚鑁(かくばん)の住房密厳院領として成立。翌年不輸不入の一円所領となったが,隣荘石清水八幡宮領隅田(すだ)荘や金剛峯寺領官省符荘との紛争が続き,荘経営は当初安定しなかった。成立期の田数は90余町,所当400余石という。下司職は室町時代にいたるまで坂上氏が相伝している。鎌倉末期以降,高野山が〈御手印縁起〉の範囲内だとして河南地域(南荘)の領有を主張し,1333年(元弘3)後醍醐天皇の勅裁によって高野山領に編入された。しかし河北地域(北荘)は戦国時代にいたるまで密厳院(根来(ねごろ)寺)領として存続した。95年(応永2)から翌年にかけて,高野山は南荘の田畠・在家の検注を行い,本格的な支配にのりだしている。南北朝時代ごろより荘内の村落には惣的結合がみられ,柏原村にはその実態を垣間みることのできる区有文書(西光寺文書)が現存する。
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世界大百科事典(旧版)内の相賀荘の言及

【橋本[市]】より

…古来,大阪方面から高野山への高野街道と,和歌山から大和への大和街道が十文字に交差し,かつ紀ノ川水運の河港でもあった。古くは市域西部に高野山領相賀(おうが)荘,北東部に石清水(いわしみず)八幡宮領隅田(すだ)荘があった。隅田荘荘官隅田氏は中世には武士団として勢力を伸ばしたが,その氏神とされたのが,人物画像鏡(国宝)で著名な隅田八幡宮である。…

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