隅田荘(読み)すだのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「隅田荘」の意味・わかりやすい解説

隅田荘 (すだのしょう)

紀伊国伊都郡(現,和歌山県橋本市)の荘園。10世紀末に藤原兼家が石清水八幡宮寺境内に建立した三昧堂の料所として成立。成立当初の免田は20町で,1072年(延久4)の荘園整理の際にも29町の免田が認められたにすぎない。12世紀初めごろ現地に別宮隅田八幡宮が創建され,藤原忠延が俗別当職に補任され,ついで隅田荘の公文職を兼帯して以降,石清水の荘園経営が軌道にのった。さらに12世紀前半~中葉の大伝法院領相賀荘との堺相論を通じて,従来の免田・寄人型の荘園から一円領域的な荘園に発展した。荘域は紀ノ川をはさんで南北にひろがっており,室町時代には河北中筋河南の地域区分がみられ,それぞれ少なくとも64町,13町,54町の田数が存在した。鎌倉時代の13世紀初めに藤原氏(隅田氏)の請所となって石清水の支配は後退したが,地頭職は守護北条氏の手に帰し,隅田氏は地頭代職の地位にとどまっている。荘内には隅田惣領家から分かれた庶家が広範に分布し,彼らは隅田八幡宮の宮座を通じて他氏をも取り込み,隅田党という独自な武士団を構成した。元弘の乱で,当時六波羅探題の検断軍奉行であった惣領家が北条氏とともに滅びると,かわって葛原氏が台頭し,室町時代には一族結合の中心となった。一方,河南は後醍醐天皇の元弘の勅裁によって高野山領に編入され,隅田南荘として分離された。また室町期には,隅田八幡の宮座は高坊氏などの高野山領官省符荘の政所一族が進出して変容し,農民闘争も活発化したため,葛原氏や上田氏は守護畠山氏の被官となって支配の維持をはかったが,戦国時代にはしだいに衰えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「隅田荘」の意味・わかりやすい解説

隅田荘
すだのしょう

和歌山県橋本市隅田町を中心に紀(き)ノ川両岸に南北に広がっていた荘園。立荘の時期、事情は不詳。しかし少なくとも10世紀末には国免荘として成立しており、延久(えんきゅう)の荘園整理の際には石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領としてみえる。1072年(延久4)には荘田29町、免田(めんでん)と寄人(よりゅうど)の支配のみを認められており、1137年(保延3)、62年(応保2)の西隣の高野山密厳院(こうやさんみつごんいん)領相賀(おうが)荘との相論を経て一円領域型荘園へと転換。鎌倉期には紀ノ川を境に隅田北荘と隅田南荘に分かれた。立荘に伴い石清水八幡宮別宮の隅田八幡宮が創建された。また荘内には鎌倉中期以降、荘公文職(くもんしき)、八幡宮俗別当(べっとう)職を有する隅田惣領(そうりょう)家を中心に、武士団隅田党が結成された。鎌倉幕府滅亡に伴い、北条氏の被官であった隅田惣領家は没落。1333年(元弘3・正慶2)10月8日隅田南荘は後醍醐(ごだいご)天皇により高野山に寄進された。隅田北荘は足利(あしかが)方に加わった隅田忠長(ただなが)(葛原氏の祖)の功によってか隅田一族中に安堵(あんど)され、葛原氏を中心とする一族連合による支配が行われた。1355年(正平10・文和4)には隅田八幡宮の神用米の未進に対する規定などを含む隅田一族連署起請文(きしょうもん)が作成された。隅田南荘は49口の分田(ぶんでん)に分割されて供僧(ぐそう)方による分田支配が行われ、直接の所務には下司(げし)に任じられた隅田一族の上田氏があたった。室町期には高野山荘官層を中心とする政所(まんどころ)一族が有力となり、隅田党の一揆(いっき)連合が動揺、さらに中下層農民の地位も上昇、荘内各地の村堂を中心に結束を強めた。戦国期に至り荘園としての機能は失われた。

[権平慶子]

『豊田武編『高野山領庄園の支配と構造』(1977・巌南堂書店)』『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「隅田荘」の意味・わかりやすい解説

隅田荘【すだのしょう】

紀伊国伊都(いと)郡の荘園。現和歌山県橋本市隅田町を中心とした一帯。10世紀末に山城石清水(いわしみず)八幡宮寺領として成立。室町時代の田数130余町。荘内には石清水社別宮として隅田八幡宮が創建され,有力農民から成長した藤原氏(隅田氏)が俗別当職(ぞくべっとうしき)を世襲。同氏は鎌倉時代にかけて隅田荘の公文職(くもんしき)・預所職(あずかりどころしき)・地頭代職も掌中にして荘園支配の実権を獲得した。また隅田八幡宮の宮座を構成する在地土豪層を一族に組み入れて武士団隅田党を結成,その惣領(そうりょう)となった。隅田荘は鎌倉時代に紀ノ川を挟んで北荘・南荘とに分かれていたが,隅田氏が鎌倉幕府と運命を共にして滅亡すると南荘は高野山領となった。
→関連項目相賀荘隅田八幡神社

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世界大百科事典(旧版)内の隅田荘の言及

【隅田氏】より

…平安後期以後,紀伊国伊都郡隅田荘に拠って活躍した武士。隅田荘は10世紀末に石清水八幡宮領として成立し,石清水八幡宮は荘内に隅田八幡宮を創建した。…

【橋本[市]】より

…古来,大阪方面から高野山への高野街道と,和歌山から大和への大和街道が十文字に交差し,かつ紀ノ川水運の河港でもあった。古くは市域西部に高野山領相賀(おうが)荘,北東部に石清水(いわしみず)八幡宮領隅田(すだ)荘があった。隅田荘荘官隅田氏は中世には武士団として勢力を伸ばしたが,その氏神とされたのが,人物画像鏡(国宝)で著名な隅田八幡宮である。…

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