矢島村(読み)やじまむら

日本歴史地名大系 「矢島村」の解説

矢島村
やじまむら

[現在地名]守山市矢島町

開発かいほつ村の南に位置。北方野洲やす川が流れる。当村から南方の赤野井あかのい村・十二里じゆうにり村にかけては条里地割とは異なった地割が残り、その周辺の耕地には条里地割とともに一ノ坪・二ノ坪・三ノ坪・四ノ坪・八ノ坪・十ノ坪・十一川原の条里制数詞坪地名も残り、昭和初期には「五ノ坪」の字名もあったという。「保元物語」上(官軍勢汰へ并びに主上三条殿に行幸の事)で、源義朝に従った武士のうちに近江国の「矢嶋冠者」がみえている。この矢島冠者を当地を本貫とする武士とみる説もある(大津市史)。長享元年(一四八七)八月二三日、京都相国しようこく鹿苑ろくおん院領の「野洲郡内矢嶋下中村田地」などにつき蔭涼軒から飯尾清房の元へ書立が送られている。浅井あざい南北なんぼく(現東浅井郡びわ町)同様鹿苑院の在地支配は困難を極めていたと推定され、九月二二日は飯尾氏から制札が与えられている(蔭涼軒日録)。大永六年(一五二六)連歌師宗長が矢島少林しようりん寺を訪れ、翌七年三月七日まで滞留した(宗長日記)


矢島村
やじまむら

[現在地名]小布施町矢島

小布施扇状地扇端低湿の地、北は篠井しのい川で江部えべ草間くさま(現中野市)と境し、東南六川ろくがわ村、西南羽場はば村・押切おしきり村と道路・耕地等で境。西方千曲川に近く、洪水にみまわれ、居村は慶長一九年(一六一四)洪水を避け、六川村地籍に移ったという(長野県町村誌)

嘉暦四年(一三二九)三月の「諏方上宮五月会流鏑馬之頭・花会頭可為同前御射山頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に、「御射山左頭、東条庄内本郷・(中略)、小布施(中略)・矢島・堤郷地頭等」、また同年同月の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)に、「外垣一間、矢島」とある。


矢島村
やじまむら

[現在地名]深谷市矢島

北縁を東流する小山こやま川右岸の沖積低地に位置し、東はうちしま村、南は普済寺ふさいじ村・岡部おかべ(現岡部町)。岡部領に所属(風土記稿)。明応二年(一四九三)四月二〇日の旦那願文(熊野那智大社文書)は「北武蔵国谷嶋」の住人久米原十郎左衛門家吉らが紀州那智山御師天満兵衛尉に奉じたもので、谷嶋は当地のことであろう。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)


矢島村
やしまむら

[現在地名]浅科村矢島

中山道八幡宿やわたじゆくの南、蓼科たてしな山の北麓に位置し、古くは矢島原やしまがはらと称された原野の一部で、東は五郎兵衛新田ごろべえしんでん村、西は牧布施まきぶせ村・入布施いりぶせ村・式部しきぶ新田(ともに現望月町布施)に接する。矢島は八島やしまで、湧水による湿地帯にかかわる地名ともいわれる(長野県町村誌)。枝郷に鶴沼つるぬまがある。

上代以来東信濃地方に土着して繁栄した望月氏の一族矢島氏の根拠地で、養和元年(一一八一)横田河原よこたがわら合戦には木曾義仲の軍に八島(矢島)四郎行忠(参考源平盛衰記)、承久三年(一二二一)の承久の乱における官軍の中にやしまの次郎(承久兵乱記)の名がみえる。


矢島村
やじまむら

[現在地名]高崎市矢島町

東南流する井野いの川左岸にある。付近一帯は井野川によって形成された自然堤防状の段丘と、東方に広がる沖積平野部分とからなる。東から東南にかけて本島名もとしまな村、西はなか堀を挟んで新保しんぼ村、南は井野川を挟んで宿大類しゆくおおるい村。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では下郷に村名がみえる(高崎藩領)。高二八四石余、田方二三町五反余・畑方三五町五反余。江戸後期の御改革組合村高帳では高崎藩領で、家数三八。元禄郷帳によると眼聖がんしよう寺領一四石があった。


矢島村
やじまむら

[現在地名]前橋市亀里町かめさとまち

東は阿内宿あうちしゆく村、西は茂右衛門分もえもんぶん村・下公田しもくでん村、北は龍門りゆうもん村、南西は横手よこて村。元禄二年(一六八九)の田一五町八反余・畑六町八反余(「検地帳」前橋市役所蔵)。元禄郷帳に「阿内宿村分れ」として高二二一石七斗余とある。寛延二年(一七四九)の村明細帳(「下川淵村誌」所収)によれば、高二四八石五斗余、田方一六町六反余・畑方九町四反余、家数二二、人数男五四・女四二、馬九。年貢のほかに一年につき高一〇石に二貫文の高役がかかる。「男稼、耕作之外薪、小やし仕度いたし候、女稼何々、糸、はた、いたし候」とあり、郷蔵は阿内村との寄蔵である。


矢島村
やじまむら

[現在地名]境町上矢島かみやじま

新田につた郡に属し、はや川右岸に位置。西は佐位さい木島きじま村。平坦地。永禄(一五五八―七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽ちようらく(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。


矢島村
やじまむら

[現在地名]明和村矢島

谷田やた川右岸にあり、東は南大島みなみおおしま村、南は大佐貫おおざぬき村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照さぬきへんじよう寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿しんじゆく(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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