江戸時代に年貢を貨幣で納入すること。石高制の下では,年貢は原則として米穀の高によって賦課されるが,種々の理由により一部もしくは全部を米に代え金,銀,銭で納めることを石代納と称した。石代納には大別して2種類ある。(1)主として畑方の年貢を貨幣で代納する場合で,普遍的に見られる。(2)田畑のいかんにかかわらず年貢全額を貨幣で代納する場合で,(1)に比べて特殊なケースといえよう。
(1)は,土地の生産力をおしなべて石高に換算し,それに一定の租率を掛けたものを米納させる石高制の原則の下では,米の収穫のない畑方の年貢納入法として必然的に採用された仕法である。しかしその具体的な納入法は前代からの慣行にも規定され,地域ごと,支配領主ごとに種々異なっている。幕領の場合でいうと,関東では畑方永納(はたかたえいのう)と称し,田方の年貢はすべて米納するのにたいし,畑方については年貢高2石5斗を永1貫文に換算し,これを金または銭で納入する。関西においては,三分の一銀納と称し,田畑の年貢高合計の3分の2を米納し,残り3分の1を銀納するしくみになっており,これもほぼ田畑の比に対応したものといわれている。陸奥・出羽地方では,半石半永(はんこくはんえい)と称し,年貢高合計のうち半分は米納とし,残り半分は金1両につき3石2斗ないし7石という著しく安い値段で金納する。甲州の国中(くになか)地方では武田氏の遺制といわれる大切小切(だいきりしようきり)制を採用しており,全年貢高の3分の1は小切と称して1両につき4石1斗4升の安値段で金納し,残り3分の2の3分の1(2/9)は大切と称して市中米価を反映した張紙値段(はりがみねだん)で換算して金納し,あと残り全部(4/9)を米納するというシステムであった。なお諸藩では,藩独自の石代納の仕法を採用する場合も少なくなかった。
(2)の年貢総額を貨幣納するいわゆる皆金納の地域としては幕領では,伊予,但馬,飛驒,大和,信濃などの諸国が挙げられているが,その事情は一様でなくそれぞれ独自の要因と仕法をもっていた。伊予は別子銅山を控えているために年貢米はすべて払米(はらいまい)となり銅山師の買請米に回されて,幕府への納入はすべて銀になったものである。但馬は生野銀山にたいする払米,飛驒の場合も御林(おはやし)の榑木(くれき)方渡しにたいする払米のために生じたもので,伊予の場合とともに,幕府にとっては皆金納であるが,農村側からすれば米納を含んでいた。これにたいし大和,信濃の場合は,元来米質が良好でないうえ,廻米に適当な街道や河川を欠いているために米納が著しく困難であるので,年貢全体を石代納とされたものである。このほかに陸奥国伊達郡内には,村内耕地の90%以上が畑地で米の収穫が期待できないために,皆金納となっている地域もある。また(1)の石代納の地域でも,願石代(ねがいこくだい)といって,米質の不良や,収穫米の不足を理由に,米納分を石代納に変更するようとくに願い出ている地域もあったが,幕府は概して蔵米の不足をおそれ,1767年(明和4)以降たびたび廻米を奨励する触を発し,石代納を制限した。
石代納では,換算値段の決め方が重要な意味をもった。関東の畑方永納,陸奥の半石半永では,あらかじめ米相場よりもかなり安い換算値段が定められていたが,関西の三分の一銀納の場合には,農村に隣接する城下町もしくは在郷町の米相場に増値段を加えた3分の1値段によって換算している。これは関東の畑方では自給性の高い雑穀類が栽培され,畿内など関西地方では近世初頭より木綿,ナタネなどの商品性の高い作物が栽培されていることに対応している。このほか,信州や駿州でも近在の町方の米相場平均を基準とし,甲州や武州の一部では江戸の張紙値段を基準とし,これに政策的に増値段あるいは安値段を付けて換算値段とした。願石代の場合には,通常の値段より高く定め,凶作などで米相場が高騰した場合には安石代と称して低い換算値段が認められることがあった。
明治政府のもとで,1870年(明治3)7月になると田方の年貢は米納,畑方年貢は10月中旬の最寄町村の上米平均値段によって石代納することと定められ,三分の一銀納制など従来の慣行は廃された。71年5月には,願しだいで田方年貢の石代納も認め,さらに72年8月には,田畑年貢ならびに雑税米ともに,最寄市町の10月1日より11月15日までの上米平均価格によって石代金納することとし,旧慣の安石代の制は廃止された。ついで73年7月には地租改正条例が発令され,石高制が廃され地租金納となったため,石代納も消滅した。
執筆者:大口 勇次郎
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江戸時代、年貢を米で納めるかわりに貨幣で納めること。石代納には、畿内(きない)を中心とした地域で実施された三分一銀納(さんぶいちぎんのう)、五分一銀納、十分一大豆(だいず)銀納、大和(やまと)(奈良県)の幕領の皆(かい)金納、関東の畑永納(はたえいのう)、甲州(山梨県)の大小切(だいしょうぎり)、陸奥(むつ)の半石半永などがある。また、石代値段の違いにより定(じょう)石代、安(やす)石代、願(ねがい)石代などがある。石代納されるのは畑租にあたる部分が多いが、年貢米輸送の困難な地方や田地の少ない山間地域などでは田畑ともに石代納された。中世において遠隔地荘園(しょうえん)の年貢代銭納が展開し、戦国期には貫高(かんだか)制のもとで貨幣納がみられた地域もあったが、太閤(たいこう)検地による石高制のもとでは米納年貢が基本となった。だが、1603年(慶長8)、幕府は大久保長安(ながやす)を通じて信州松代(まつしろ)藩内に、麻、雑穀など、その地の生産物納や貨幣での石代納を指示した。近江(おうみ)(滋賀県)や摂津(せっつ)(大阪府・兵庫県)、和泉(いずみ)(大阪府)の幕領では、慶長(けいちょう)(1596~1615)末年から元和(げんな)期(1615~24)に五分一銀納が実施され、関東の平場(ひらば)農村においても、慶長・元和期から畑方石代納が実施された。関東では寛永(かんえい)10年(1633)ごろまで永(えい)1貫文(金1両)=5石替(かえ)で石代納されていたが、その後、永1貫文=2石5斗替となり、貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)(1684~1704)のころより1石2斗5升替となった。関東で畑永納が実施されると、石高を基準とした厘取(りんどり)法から、反別を基準とした反取(たんどり)法へと徴租法の転換がみられ、関東では寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)期(1661~81)以降、反取法が一般化した。そこでは、畑租は反当り永何文という方法で徴収された。
[川鍋定男]
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…この相場は江戸市中の米価に準拠しているが,財政・米価・旗本救済などの諸点をも考慮して決定された。年貢石代納(こくだいのう)の換算値段は,一般に近在の米市場の相場を基準にするが,関東と甲州の一部の幕領では,張紙値段に一定の増値段を加えて使用している。【大口 勇次郎】。…
※「石代納」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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