石原修 (いしはらおさむ)
生没年:1885-1947(明治18-昭和22)
衛生学者。兵庫県伊丹町出身。1908年京都帝国大学福岡医科大学(のち九大医学部)卒業,翌年東京帝大衛生学教授横手千代之助の指導のもと,内務省・農商務省から嘱託された鉱山・工場の衛生調査に従事。この調査が13年国家医学会例会での〈女工と結核〉および〈衛生学上ヨリ見タル女工之現況〉として結実した。特色は,従来の断面的調査を一歩進めて,帰郷女工の追跡調査を加えたことである。この調査は事業主の依頼によって行われたものではなかったため,より衛生の実態が明確になり,帰郷女工と結核の関係および農村の結核まんえんの状態が明らかにされて,工場法実施推進に論拠を与えた。鉱工業監督官,大阪医大・大阪帝国大学医学部教授を歴任。その間,産業医学会の創設など産業衛生面に尽力したが,そのためか33年休職を命ぜられ35年退官。以後,東京深川健康保険指導所に勤務した。日本の労働衛生・産業医学の先駆者であり,医療の社会化運動にも影響を与えた。著書に《新稿労働衛生》(1926)がある。
執筆者:松田 武
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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石原修
いしはらおさむ
(1885―1947)
医学者。明治18年10月18日兵庫県に生まれる。紡績業を中心とする女子労働者の劣悪な労働環境を調査し、工場法成立に大きな役割を果たした。京都帝国大学福岡医科大学卒業後、1909年(明治42)より内務省嘱託(のち農商務省嘱託)として工場法準備のための工場衛生に関する調査を実施、工場内の衛生状態だけでなく、農村出身女工の帰郷後の健康状態を追跡調査することにより、工場内で発生した結核が帰郷女工を通じて全国に蔓延(まんえん)する事実を明らかにして、工場法推進の決定打とした。『女工と結核』『衛生学上ヨリ見タル女工之現况』などの論著がある。のち工場監督官、大阪医科大学教授などを務めた。昭和22年6月29日没。
[米田佐代子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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石原 修
イシハラ オサム
大正・昭和期の衛生学者 大阪医科大学教授。
- 生年
- 明治18(1885)年10月
- 没年
- 昭和22(1947)年
- 出生地
- 兵庫県
- 学歴〔年〕
- 京都帝国大学福岡医科大学〔明治41年〕卒
- 学位〔年〕
- 医学博士
- 経歴
- 上京して東京帝大医学部衛生細菌学教室に入り、横手千之助教授に師事、工場衛生の調査に従事。明治45年東京市技師、大正5年鉱務監督官兼鉱業監督官、工場監督官、10年欧米出張をはさみ、11年内務省社会局監督官を歴任。15年大阪医科大学衛生学教授、昭和8年休職、10年退職。のち12年社会局健康相談所事務取扱。戦後は年金保険厚生団事業部長。わが国の労働衛生、産業医学の先駆者で、学位論文の「衛生学上ヨリ見タル女工之現況」の「付録 女工と結核」は工場法実施の推進を促した。著書に「新稿労働衛生学」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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石原修 いしはら-おさむ
1885-1947 大正-昭和時代前期の衛生学者。
明治18年10月18日生まれ。工場,鉱山の労働環境をしらべ,女子労働者の結核が帰郷地でひろがる事実をつきとめ,工場法の実施をうながした。大阪帝大教授。昭和22年6月29日死去。63歳。兵庫県出身。京都帝大福岡医大(現九大医学部)卒。著作に「衛生学上ヨリ見タル女工之現況」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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石原 修 (いしはら おさむ)
生年月日:1885年10月18日
大正時代;昭和時代の衛生学者。大阪医科大学教授
1947年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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