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石を投げ合って勝敗を競う遊戯。昔は本当の戦争にも石を用いた。印地打(いんじう)ちともいい、昔は石合戦を得意とした軍勢を印地とよんだといわれる(『平家物語』『義経記(ぎけいき)』)。印地の語原は「石打」のつづまったものであろうといわれている。家康の幼時、従者の背で印地打ちを見物し、戦況をみて勝敗を予言したという逸話はよく知られている。『慶長見聞集』には下総(しもうさ)国(千葉県)と武蔵(むさし)国(東京都)の子供が隅田(すみだ)川を挟んで石合戦をしたことがみえるが、正月15日とか五月節供の行事として民間で盛んに行われている。参加者は主として子供であったと思うが、祭りの日に行う所では、年占(としうら)として、勝てば豊作に恵まれると信じていた所もあった。激しい行事なので寛永(かんえい)(1624~1644)のころ以後たびたび禁令が出たが、男児の五月節供の行事としてなかなか後を絶たなかったようである。石がなるべく遠くに飛ぶように、竹を割って挟んで投げ飛ばしたり、縄を編んで小形の「もっこ」をつくり石を入れておいて振り回したり、技法もくふうされた。長野県の北部地方や秋田県の仙北市角館(かくのだて)付近で、ズンベ、ズンバイというのがこれであった。中国にも祖廟(そびょう)の祭りに際し、村対抗の石合戦があって、年の豊凶の占いとなっていた。
[丸山久子]
…弓矢と石弾は競合関係にあるといわれており,この武器としての石打も弥生文化とともに西日本にもたらされたのであろう。 古墳時代,律令時代には飛礫の実態は不明であるが,881年(元慶5)京の一条で児童数百が戦闘のまねをしたのは(《日本三代実録》),おそらく石合戦で,10世紀以後,記録・文書に頻出する。1012年(長和1)叡山に上る藤原道長の一行に飛礫を打った山僧の行為が〈三宝の所為〉といわれ(《小右記》),1231年(寛喜3)の大飢饉のさい,飛礫を禁じたため飢饉となったという〈京中雑人〉の声に押され,北条泰時がそれを〈制の限りに非ず〉としたように,平安後期~鎌倉期の飛礫は神仏などの意志によると考えられていた。…
※「石合戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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