「石打(いしう)ち」の転じたもの。「いんじ」を「いんじ打ち」の略とする説もあるが、順序は逆で、「いんじ」が「石打ち」であったことが忘れられて、さらに「打ち」がつけられたものと考えられる。
飛礫(つぶて),石打ともいう。印地の語源は不明。石打は人類の発生とともに古く,世界の諸民族に広く分布するが,日本では,弥生時代前・中期の石弾が西日本各地に発見されている。弓矢と石弾は競合関係にあるといわれており,この武器としての石打も弥生文化とともに西日本にもたらされたのであろう。
古墳時代,律令時代には飛礫の実態は不明であるが,881年(元慶5)京の一条で児童数百が戦闘のまねをしたのは(《日本三代実録》),おそらく石合戦で,10世紀以後,記録・文書に頻出する。1012年(長和1)叡山に上る藤原道長の一行に飛礫を打った山僧の行為が〈三宝の所為〉といわれ(《小右記》),1231年(寛喜3)の大飢饉のさい,飛礫を禁じたため飢饉となったという〈京中雑人〉の声に押され,北条泰時がそれを〈制の限りに非ず〉としたように,平安後期~鎌倉期の飛礫は神仏などの意志によると考えられていた。それゆえ,飛礫は菖蒲とも結びつき邪気・穢気をはらう力を持つとされ,正月14日の追儺(ついな),同15日の小正月,5月5日の節供のほか,賀茂・石清水八幡・祇園・川崎惣社などの諸社の祭り,神輿(みこし)・神木の入洛嗷(強)訴,神人(じにん)・衆徒同士の衝突のさいなどに,頻々と打たれ,1107年(嘉承2)の京中辻々の飛礫のように(《中右記》)突然おこることもあった。無礼の者,広く反感をかった者,罪人に対する飛礫も同様の意味からであろう。また〈向へ礫,印地,云甲斐なき辻冠者原,乞食法師ども〉(《平家物語》),〈河原ゐんぢやとざまなる悪党の奴原〉(《渋柿》)といわれたように,飛礫は〈清目(きよめ)〉を職能とする非人あるいは悪党と密接な関係があり,白河辺には〈向飛礫の輩〉といわれ,老若の組織を持つ印地の党がいたのである。
飛礫はときに武芸による刃傷を伴ったので,1263年(弘長3)の公家新制の禁止,あるいは66年(文永3)鎌倉比企谷でおこった甲乙人の飛礫に対する幕府の禁圧のように,支配者は抑制しようと試みたが,実効はなく,飛礫に神意を見る民衆の根強い感情を背景に,鎌倉・南北朝期には飛礫を打つ人々を英雄視する見方も強かった。《太平記》には楠木正成をはじめこうした悪党・悪僧が多数登場する。正成は実際に千早城籠城のさいに飛礫を武器として使ったが,南北朝期以後,戦国期まで,城郭には飛礫が用意され,籠城のさい攻城軍に対する組織的な武器として使われた。一向一揆,島原の乱などの一揆や戦国大名も飛礫を駆使しているが,室町期以降になると,飛礫の神意性は天狗礫のような形で伝説的に残っているとはいえ,表面から退き,子どもの遊びや,年中行事,祭り,婚礼などのハレの日に限定された飛礫・印地が見られるのみとなる。印地の党も姿を消し,わずかに忍者・目明(めあかし)の世界にその面影を残しているが,江戸時代の百姓一揆,打毀(うちこわし),近代の米騒動などから近年の学園紛争にいたる民衆の闘争,蜂起に当たって噴出する飛礫の深層には,こうした原始以来の歴史が作用しているとみてよかろう。
執筆者:網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…平安時代には,天皇が武徳殿に出席して騎射(うまゆみ)と競馬が5日,6日の2日間にわたって行われ,のち宴が催された。武家時代には,印地打(いんじうち)(印地。石合戦のこと),菖蒲打など勇壮な行事が多く行われた。…
※「印地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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