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石川数正 いしかわかずまさ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

石川数正
いしかわかずまさ

[生]? 美濃
[没]文禄2(1593).12. 名護屋
戦国時代の武将。伯耆守と称した。庸正の子。徳川氏に幼少から仕えて家康に非常にかわいがられた。そのうえ石瀬合戦や姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦いで功を立て,重臣として徳川氏家臣団内部に重きをなした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

石川数正 いしかわ-かずまさ

?-1593* 織豊時代の武将。
松平元康(徳川家康)の側近として織田や豊臣との連盟維持に活躍。姉川,三方原,長篠(ながしの),小牧などの戦いに従軍。家康の子信康の付家老となるが,信康死後の天正(てんしょう)13年豊臣秀吉に属し,18年信濃(しなの)(長野県)松本城主となった。文禄(ぶんろく)元年12月死去。初名は康正,のち吉輝。通称は与七郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

石川数正

没年:文禄1(1592)
生年:生年不詳
戦国・安土桃山時代の武将。通称は与七郎,伯耆守,出雲守。のち康正,吉輝と名乗る。石川康正の子。天文18(1549)年駿河今川氏の人質となった松平竹千代(徳川家康)に随行する。桶狭間の戦後,家康が今川氏から独立すると,酒井忠次,石川家成と共に,老臣として,内政・外交に活躍する。永禄12(1569)年には,叔父家成に代わって西三河の旗頭となった。なお,領国支配においては,東三河の旗頭・酒井忠次との間に違いがある。忠次が家康の権限の一部を代行していたのに対し,家成・数正にはそのような権限はなかった。天正12(1584)年家康が豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦では,小牧山の本陣を守る。翌13年城代を務めていた岡崎城を出奔し,秀吉方へ走る。ただし,その理由は明らかになっていない。同14年秀吉から和泉国内に所領を与えられた。同18年小田原の役後,信濃松本8万石に移封される。文禄1(1592)年肥前名護屋に出陣し,同年没した。没地・命日は不明だが,12月14日京都七条河原で葬儀が行われている。<参考文献>中村孝也『家康の臣僚 武将篇』,北島正元「石川伯耆守数正」(『近世史の群像』),金井圓「石川数正の死」(『藩制成立期の研究』),平野明夫「三河統一期における徳川氏の支配体制―酒井忠次と石川家成・同数正の地位と権限を通して―」(『戦国史研究』23号)

(平野明夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

いしかわかずまさ【石川数正】

?‐1592(文禄1)
徳川家康旧臣で信濃深志(松本)城主。通称助四郎。出雲守。父康正は家康幼少時の重臣。数正は家成の甥,今川氏の人質になった家康に随従した家臣の筆頭格。つねに家康に近侍し家康と織田信長との同盟に重要な役割を果たす。叔父家成から西三河の旗頭(はたがしら)を継承し,のち家康の嫡子信康付きの家老となり,信康自殺後,岡崎城代となった。1585年(天正13)突然岡崎を出奔,豊臣秀吉に臣属し信濃深志で8万石を与えられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

石川数正
いしかわかずまさ

安土桃山時代の武将で、徳川家康の重臣。のち豊臣政権下の大名。父は康正、母は不明。1549年(天文18)に松平竹千代(家康)が今川氏の人質になったとき、駿府に随従して以来、つねに側近にあった。1561年(永禄4)の尾張石瀬(いしがせ)合戦では先鋒となるが、この合戦後、織田信長との同盟を斡旋し、家康は今川氏と戦うこととなった。翌年2月には、数正は駿府にあった家康の嫡子信康(のぶやす)と正室築山殿の奪還に成功。1569年には叔父家成にかわり、西三河の旗頭(はたがしら)となり、諸将を統括した。姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手(ながくて)の合戦などでも戦功をあげたが、1585年(天正13)に路線論争に敗れて岡崎城を出奔し、豊臣秀吉に臣従した。1590年に小田原攻めの功により、信濃国松本城主8万石に封ぜられ、1592年(文禄1)に没した。[本多成]
『北島正元政著『近世史の群像』(1977・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の石川数正の言及

【松本藩】より

…ただし初期の松平家は越前家分家で親藩。1590年(天正18)7月石川数正が松本城主となり,安曇・筑摩両郡8万石を領したのが藩の起りである。数正・康長2代の間に,太閤検地に相当する石直(こくなおし),天守築造,城下町拡張,宿駅整備をみたが,関ヶ原の戦後,年未詳の御家騒動と大久保長安に縁坐して1613年(慶長18)10月改易となった。…

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