朝日日本歴史人物事典 「石川数正」の解説
石川数正
生年:生年不詳
戦国・安土桃山時代の武将。通称は与七郎,伯耆守,出雲守。のち康正,吉輝と名乗る。石川康正の子。天文18(1549)年駿河今川氏の人質となった松平竹千代(徳川家康)に随行する。桶狭間の戦後,家康が今川氏から独立すると,酒井忠次,石川家成と共に,老臣として,内政・外交に活躍する。永禄12(1569)年には,叔父家成に代わって西三河の旗頭となった。なお,領国支配においては,東三河の旗頭・酒井忠次との間に違いがある。忠次が家康の権限の一部を代行していたのに対し,家成・数正にはそのような権限はなかった。天正12(1584)年家康が豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦では,小牧山の本陣を守る。翌13年城代を務めていた岡崎城を出奔し,秀吉方へ走る。ただし,その理由は明らかになっていない。同14年秀吉から和泉国内に所領を与えられた。同18年小田原の役後,信濃松本8万石に移封される。文禄1(1592)年肥前名護屋に出陣し,同年没した。没地・命日は不明だが,12月14日京都七条河原で葬儀が行われている。<参考文献>中村孝也『家康の臣僚 武将篇』,北島正元「石川伯耆守数正」(『近世史の群像』),金井圓「石川数正の死」(『藩制成立期の研究』),平野明夫「三河統一期における徳川氏の支配体制―酒井忠次と石川家成・同数正の地位と権限を通して―」(『戦国史研究』23号)
(平野明夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報