石榑千亦(読み)いしくれちまた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石榑千亦」の意味・わかりやすい解説

石榑千亦
いしくれちまた
(1869―1942)

歌人。愛媛県生まれ。本名辻(つじ)五郎。明道学校卒業後、上京。1893年(明治26)佐佐木信綱(のぶつな)に師事、98年の『心の花』創刊以来晩年まで信綱を助けてその編集に従事した。重厚な作風で、海と酒と書を愛し、歌集に『潮鳴(しおなり)』(1915)、『海』(1934)、『鴎(かもめ)』(1921)がある。89年帝国水難救済会設立に参加、終生常務理事として貢献。この会の下僚新井洸(あきら)(1833―1925)、古泉千樫(こいずみちかし)らの歌人がいる。歌人五島茂(しげる)の実父

佐佐木幸綱

 大かたはおぼろになりて吾(わ)が眼(め)には白き杯(さかずき)一つ残れる

『『潮鳴』(『現代短歌全集』第3巻所収・2001・筑摩書房)』『『海』(短歌新聞社文庫)』

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20世紀日本人名事典 「石榑千亦」の解説

石榑 千亦
イシクレ チマタ

明治〜昭和期の歌人



生年
明治2年8月26日(1869年)

没年
昭和17(1942)年8月22日

出生地
伊予国西泉村(愛媛県西条市)

本名
辻 五郎

経歴
中学卒業後の明治22年に上京し、帝国水難救済会の創設に参加し、生涯をその発展につとめ、後に常務理事となる。26年、佐佐木信綱の門に入り、31年「心の華」の創刊に参加、以後同誌の編集運営に参加。海洋を歌う歌人として活躍し、大正4年「潮鳴」を刊行。他に「鷗」「海」などの歌集がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石榑千亦」の解説

石榑千亦 いしくれ-ちまた

1869-1942 明治-昭和時代前期の歌人。
明治2年8月26日生まれ。五島茂の父。上京して佐佐木信綱の竹柏会にはいり,「心の花」創刊以来終生責任編集者をつとめた。また帝国水難救済会を創設し,常務理事。下僚に古泉千樫,新井洸らがいる。昭和17年8月22日死去。74歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。明道学校卒。本名は辻五郎。歌集に「潮鳴」「鴎」など。
【格言など】大海(おほうみ)は広くしありけりむれ鯨潮(うしほ)高吹きゆたに遊べり(「石榑千亦作品集」)

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367日誕生日大事典 「石榑千亦」の解説

石榑 千亦 (いしくれ ちまた)

生年月日:1869年8月26日
明治時代-昭和時代の歌人
1942年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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