ローマ美術(読み)ろーまびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ美術」の意味・わかりやすい解説

ローマ美術
ろーまびじゅつ

紀元前8世紀から紀元後4世紀ごろまで、都市ローマを中心に、ローマ人が支配した地域において行われた美術活動。

 伝説によれば、前753年にロムルス王によって建設されたといわれるローマは、テベレ川左岸に沿っていくつもの丘陵を抱えているが、王政時代(前753~前509)には、この一帯にラテン、サビニ、エトルリアの各種族が居住していた。ローマは古くからエトルリア文化の強い影響を受けており、伝説的諸王7代のうち、おそらく最後の3代(前550年ころから約半世紀)はエトルリア王権の支配下にあったとされている。カピトリーノの丘にユピテル、ユノ、およびミネルバの3神殿が建てられ、レギア(王宮)や城壁などの建造が行われたのも、この時期にあたるとみなされる。しかし、彼らの支配の基盤は強固なものではなく、前6世紀末に至ってローマからエトルリア王権は追放され、共和制が樹立される。内政を整えたローマは、イタリア半島のみならず、シチリア島からアフリカ北岸のカルタゴに至る地中海中部に勢力を拡充し、ついにギリシア文化圏の全域を統治するに至った。さらに、ヨーロッパの中西部の各地域も制圧して広大な世界国家を建設するが、それとともに内政形式も変わり、前27年に帝政時代に入るのである。

[濱谷勝也]

建築

ローマ建築は、その構造上の特質として、東方(=エトルリア)から継承した半円もしくは半球を基本とする形式を発展させた。広大な空間を必要とするローマの建築にこの構造形式が用いられたのは、石材の重量を力学的に利用して堅牢(けんろう)さを確保するためであり、壁体の開口部にも同じ形式が用いられる。これに対し外装には、ギリシア神殿の軒から基壇に至るデザインをそのまま使っている。ギリシア神殿では、軒も円柱も構造体であると同時に装飾デザインの役割を負うが、ローマ建築の場合は構造上の意味は失われて、単なる装飾デザインに転化されるのである。

 ローマで造営事業がとくに進展を示すのは帝政時代(前27~後476)である。ローマ市民生活の中心をなしたフォルムforum(ラテン語。イタリア語ではフォロforo=公共広場)は、神殿、凱旋(がいせん)門、記念柱などで形成されるが、これらの建造物は個別的にも建てられる。公共的施設としては、バシリカ(市場と法廷とが併設された建造物)、コロセウム(闘技場)、テルマエ(大浴場)などがあげられる。さらに皇帝の陵墓や、水道橋、野外劇場などもこの時代の建造物として見落とせない。

 ローマ建築史上の最盛期は、ウェスパシアヌス帝からハドリアヌス帝に至る期間(69~138)であるが、最初に造営されたローマのコロセウムは、各地に現存するこの種の建造物では最大規模を有し、約5万人の観客が収容されたという。また、ティトゥス帝の小アジア地域における戦勝を記念する凱旋門は、現存するものではもっとも古く、端正で簡潔な構成美をみせている。

 ローマ帝国の治世が最大領域を占めた時期のトラヤヌス帝(在位98~117)は、造営事業にも傑出した業績を残しており、ローマ市内における事例としてはフォロ・トライアーノForo di Traiano(106着手、113完成)が皇帝フォルム中最後の、最大のものとして画期的である。原形をほぼとどめているのは記念柱のみであるが、わずかに残る礎石から、凱旋門、バシリカ、記念柱、および神殿といったローマ固有のモニュメントを結ぶ線が主軸となる、均整のとれた公共施設であったことが推測できる。

 次のハドリアヌス帝(在位117~138)も建築に情熱をもち、多くの造営事業を企画・実施したが、特筆されるのは主神ユピテルに奉献された神殿「パンテオン」である。円形のプランに半球形の円蓋(えんがい)を架したその構造には、エトルリア由来の形式がもっとも典型的に適用され、正面はギリシア神殿のそれを模したコリント式柱廊で装われている(完成は次のアントニヌス・ピウス帝の時代)。またハドリアヌス帝の陵墓も直径64メートルの円形プランの大建築で、テベレ川を挟んで同一規模のアウグストゥス帝のそれと相対していた。今日のサンタンジェロ城は、荒廃後、中世に要塞(ようさい)として改造されたものである。

 帝政時代の後期になると、カラカラ帝(118―217)およびディオクレティアヌス帝(在位284~305)によってテルマエが実現されるが、これは体育室、図書室、各種浴室、大広間、競技場などが配置された、複雑で大規模な総合施設であった。

[濱谷勝也]

彫刻と絵画

この分野においては、ローマは、先行のギリシア美術をほとんどそのまま踏襲している。とくに彫刻においては、ローマ時代に制作された作品の多くが、古典ギリシアの模作であった。ローマ独自の作品で現在に伝えられているものもけっして少なくはないが、それらは凱旋門、記念柱などの建造物、あるいは石棺に施された歴史的浮彫りである。とくにトラヤヌス帝およびマルクス・アウレリウス帝(在位161~180)の記念柱の浮彫りは、円柱に螺旋(らせん)状に刻まれた200メートル以上にわたる一種の絵巻物で、歴史上、美術様式上きわめて貴重である。またアウグストゥス帝(在位前27~後14)が、帝政のもたらした内政秩序の回復を記念して設けたアラ・パキス(平和の祭壇)は「ローマのパルテノン・フリーズ」ともいわれる秀作である。

 そのほかローマ彫刻で美術史上重要な意義をもつものに、各種の肖像彫刻(胸像、座像、立像、騎馬像)があげられる。石棺の上に夫妻の肖像を配置するエトルリアの習慣が伝統として残り、ギリシア後期の優れた肖像彫刻が、この種のローマ彫刻を大いに育成した。そのもっとも著名な事例はアウグストゥス帝軍装立像とマルクス・アウレリウス帝騎馬像である。

 建築を装飾する壁画やモザイクは現実的・実利的なローマ人の性格を反映し、風俗的で享楽的な傾向が顕著である。その実態を現代に伝えているのは、79年のベスビオ火山噴火で埋没したポンペイやヘルクラネウムの発掘品であるが、豊かで風俗的な日常生活の諸場面が絵画表現の主題として広範に取り上げられ、それに静物・動物・風景が配されて、当時のローマ人の生活感情をありのまま伝えている。富裕なローマ人はギリシアの画家を招いて制作にあたらせているので、ギリシア絵画の影響を直接伝えたと思われる壁画にはきわめて高度な技巧が認められ、その大部分はナポリ国立考古博物館に所蔵されている。またローマ市内からも若干の壁画とモザイクが発見されており、これらはローマ国立美術館に現存する。

[濱谷勝也]

『辻茂編著『大系世界の美術6 ローマ美術』(1976・学習研究社)』『H・フォン・ハインツェ著、長谷川博隆訳『西洋美術全史3 ローマ美術』(1980・グラフィック社)』『R・ビアンキ・バンディネルリ著、吉村忠典訳『人類の美術 ローマ美術』(1974・新潮社)』『呉茂一編著『世界の文化史蹟4 ローマとポンペイ』(1968・講談社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローマ美術」の意味・わかりやすい解説

ローマ美術
ローマびじゅつ
Roman art

前5世紀頃から 500年まで,古代ローマを中心にローマ帝国全地域で展開された美術。エトルリア美術ならびにギリシア美術の影響より出発し,のち独自の様式を発展させた。建築においてはアーチを用いることで巨大な建造物が可能となり,神殿のみならず劇場,闘技場,凱旋門などの世俗の建築物も多く建てられた。彫刻においてはギリシアの影響が特に顕著で,美術史上グレコ=ローマン時代と呼ばれる一時期を画した。その特徴は性格描写にまで高められた肖像彫刻にある。絵画もまたギリシア美術の受容から始り,多くのギリシアの画家がローマの公共建築や個人の邸宅をモザイクやフレスコで飾った。これらのローマ時代の絵画はポンペイをはじめ,ヘラクレネウムそのほかに多く残されている。

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