禅長寺(読み)ぜんちようじ

日本歴史地名大系 「禅長寺」の解説

禅長寺
ぜんちようじ

[現在地名]いわき市小名浜林城 大門

正しくは禅長護国禅寺と称する。普門山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は滝見観音と通称される木造観音菩薩半跏像で、県指定重要文化財。胎内に「西方仏師・備後律師院尊作之」「応永第十七正月十三日 造立了」の銘がある。延享三年(一七四六)の巡見使案内帳(内藤家文書)によれば、弘安一〇年(一二八七)開山遠峰とするが、寺伝によれば大同二年(八〇七)徳一の開山、文永年間(一二六四―七五)鳥羽天皇の第三皇子寒岩義尹中興、亀山天皇の勅願所となる。弘安年間遠峰が再び中興したという。「雑磐城誌」は「右三代開山ノ事跡元亨年間安藤高尭北条氏と戦のとき一山兵火に罹り旧記烏有トナル由緒の詳かなるを知るに由なし」と記している。


禅長寺
ぜんちようじ

[現在地名]赤泊村赤泊

赤泊の家並の背後に迫る丘陵上にある。真言宗智山派、松林山と号し、本尊聖観音立像。開基は天長四年(八二七)とも天徳三年(九五九)とも伝えるが未詳。「佐渡国寺社境内案内帳」によると、「玉葉集」の編者京極為兼が永仁六年(一二九八)佐渡へ流罪となったが、当寺で詠んだ阿弥陀名号歌が天皇の目にとまり、嘉元元年(一三〇三)赦免がかなったといい、歌は現在宝永五年(一七〇八)阿野公緒書写のものが当寺に伝存する。


禅長寺
ぜんちようじ

[現在地名]吉備町土生

霊宝山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと霊宝れいほう山の麓にあったが、永正一一年(一五一四)に嶺悦誉公が現在地に移した。紀伊国の有田ありだ日高ひだか海部あま三郡内に末寺四八ヵ寺をもつ大寺であったが、幕末には九ヵ寺になった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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