日本歴史地名大系 「福川村」の解説
福川村
ふくがわむら
古くは
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では矢地・福川が合石されて記され、同一五年の検地帳も同様で、総石高三千二七石余、うち田方が一五四町余で二千四四六石余、畠方が七四町で四一二石余、百姓屋敷一七一、市屋敷一四四とある。このうち福川村分は七〇三石余である。
元和七年(一六二一)毛利輝元は次男就隆に領地を分知したが、その一部替地として、福川七〇三石余の地を約束し、翌年に打ち渡している(徳山毛利家文書)。寛永三年(一六二六)の熊野帳では毛利就隆領として高一千四石四斗余が記される。
福川村
ふくかわむら
柿木村から
福川村
ふくがわむら
福川村
ふくかわむら
福川村
ふくかわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報