福川村(読み)ふくがわむら

日本歴史地名大系 「福川村」の解説

福川村
ふくがわむら

[現在地名]新南陽市大字福川

夜市やじ川の河口に発達した村で、東西に通る山陽道沿いに早くから町が発達していた。東は富田とんだ村、西は夜市村(現徳山市)、南は海を挟んで黒髪くろかみ島に対する。徳山藩領。

古くは矢地やじ(夜市)村と一所であったらしいが、元亀二年(一五七一)一月一七日付の作間弟丸宛毛利元就安堵状(「閥閲録」所収久芳庄右衛門家文書)に「防州都濃郡福川之内三石足之事 親越後守任譲之旨可知行状如件」とある。

慶長五年(一六〇〇)検地帳では矢地・福川が合石されて記され、同一五年の検地帳も同様で、総石高三千二七石余、うち田方が一五四町余で二千四四六石余、畠方が七四町で四一二石余、百姓屋敷一七一、市屋敷一四四とある。このうち福川村分は七〇三石余である。

元和七年(一六二一)毛利輝元は次男就隆に領地を分知したが、その一部替地として、福川七〇三石余の地を約束し、翌年に打ち渡している(徳山毛利家文書)。寛永三年(一六二六)の熊野帳では毛利就隆領として高一千四石四斗余が記される。


福川村
ふくかわむら

[現在地名]柿木村福川

柿木村から吉賀よしが川の支流福川川に沿って南西に上った所にある。くり伊豆原いずはら亀田かめだ三之瀬さんのせ猿走さるはしり本郷もとごう口屋くちやかめはら折橋おればし唐人屋とうじんや平野ひらの古本こもと菅原すがはら松原まつはらの一四集落がある。安芸廿日市あきはつかいち街道は津和野城下からすぎヶ峠を越えて当村の唐人屋・折橋・本郷を通り、福川川に沿って柿木村へ至る。正保国絵図には福川村と福川渡が記されており、高三〇九石余。明治四年(一八七一)の万手鑑では椛谷かばたに村とともに福川二ヵ村とあり、当村の古高三〇九石余、寛永一四年(一六三七)の検地高四八〇石余、明治四年の総高六三八石余・反別九八町九反余、家数一〇四(卒一・本百姓八五・小百姓一四・社家一・寺一・医師一など)・人数四一一、牛七二・馬七、米蔵二、社三(大字山八幡太神・大尾山大歳大神・亀田山田神社)、紙漉舟六二、鉄砲二一、古城跡一(斎藤市左衛門跡地と伝える)


福川村
ふくがわむら

[現在地名]若美町福川

八郎潟の南西岸に位置し、北は角間崎かくまざき村、南は渡部わたなべ村に接し、西は寒風かんぷう山麓断崖下の百川ももかわ村(現男鹿おが市)と相対する。山神やまがみ神社境内に貞和六年(一三五〇)銘の割石板碑がある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「参百五拾壱石八斗 ふつと村 福川村」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四六石とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には当高七二石五斗三升六合とあり、うち四二石四斗三合は蔵分。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には「高八拾石、田水出水又堤」とある。


福川村
ふくかわむら

[現在地名]上勝町正木まさき

藤川ふじかわ村の東に位置し、勝浦川支流のあさひ川が東流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「福川村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 福川村」とみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高二七〇石余。「阿波志」によれば、土田は三等雑、水田一八町四反余・陸田二二町一反余、高三二二石余。


福川村
ふくかわむら

[現在地名]青山町福川

奥鹿野おくがの村の西南に位置し、村の大部分山地。本高八二・三六石、平高一〇〇・九五石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三〇、人口一〇〇、馬一〇。神社は八王子、無寺(宗国史)。八王子(明治五年以後、八柱神社)は明治四一年(一九〇八)種生たなお種生神社合祀

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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