福永村(読み)ふくながむら

日本歴史地名大系 「福永村」の解説

福永村
ふくながむら

[現在地名]神石町福永

草木くさぎ村の西、まき村の北に位置し西は甲奴こうぬ五箇ごか村・黒目くろめ(現総領町)。中央を南北に西城路が通る。村域内に正蓮寺しようれんじ古墳群・神宮寺じんぐうじ古墳がある。中心集落はくれたお。地名呉は古代の呉服部に由来するとか、高麗(こり・から)から転じたとかの説がなされるが不明。呉ヶ垰は泉山いずみやま城の麓に中世後期から発達した市場で、付近一帯を市谷いちだにという。この市場は油木ゆき(現油木町)小畠こばたけ(現三和町)の市と並ぶ神石郡の西の中心地で、交通・産業・文化の中心をなした。

「水野記」瑞源院の項に「門田庄郡村 南光山向陽庵、禅宗(中略) 八幡宮、古社領拾六貫、天文六丁酉年宮野高雄修補(中略) 神石大明神、古社領拾貫、毛利家没収之、門田庄門田村 西深山政蓮寺、禅宗(中略) 梶尾大明神、自雲州大社奉勧請也、天文十七戊申年宮野高尾再興(中略)社領二拾貫(中略) 門田庄和泉村 八幡宮、天文三乙未年宮野高尾再興(中略) 中谷寺、真言宗、古大内某之建立、寺領拾貫(中略) 右郡村門田村和泉村是謂三村、又号福永村皆在福永村之内也」とみえる。これによれば福永村は門田かどた庄ともよばれ、こおり村・門田村・和泉いずみ村の三村からなっていたことが知れる。門田という地名は伝わらないが、郡は小堀谷こほりだに小堀山こほりやま(八幡神社が鎮座)、和泉は泉谷いずみだに、泉山(城跡がある)などとして現存し、政蓮寺も正蓮寺という地名を残す。


福永村
ふくながむら

[現在地名]溝口町福兼ふくかね

富江とみえ村の北東に位置し、北は添谷そいだに村。大山西麓の広い裾野が当村から添谷村・富江村一帯に広がり福永原と称され、大山南壁の崩壊による堆積物によって水は伏流をなす。正保国絵図新印神しいがみ村と記され、寛保二年(一七四二)福永村と改称(藩史・日野郡史)。村名は村の荒廃を救った福右衛門と永蔵の名にちなむという(溝口町誌)。「伯耆志」は宝暦(一七五一―六四)頃の改称とする。

かつての新印神の呼称から、中世にみえる「新印郷」「下新印村」を同一の地として当地付近に比定する説がある(鳥取県史)。「吾妻鏡」寛元二年(一二四四)七月一六日条によると、日野六郎長用と平五郎季長法師(法名妙蓮)との間に「伯耆国日野新印郷・同下村」の得分をめぐる相論があったが、長用は自らが不利と考えてか、同年六月二〇日に裁許のための鎌倉幕府御教書を奪い取り、鎌倉への出仕を停止されている。


福永村
ふくながむら

[現在地名]会津本郷町氷玉ひだま

西は山岳、北は会津盆地に続き、東は氷玉川を挟んで田畑に連なる。下野街道に沿い、北は大八郷おおはちごう村、南はもと端郷の関山せきやま村と、かつて八重松やえまつ村の端郷であった上小松かみこまつ村に続く。南一町二〇間に端村大工屋敷たこやしき(現在はたいくやしき)がある。かつては火玉村(日玉・檜玉)と称したが、寛永四年(一六二七)加藤嘉明の時代に火の字を忌んで福永村と改めた(新編会津風土記)。越後国蒲原かんばら小川おがわ払川はらいかわ(現新潟県上川村)日光につこう寺の洪鐘銘に「大沼郡火玉大工藤内次郎家貞西山日光寺本願厳敬白」とあり、寛正五年(一四六四)の紀年が刻される。


福永村
ふくながむら

[現在地名]多度町福永

揖斐いび川西岸の広大な七郷ななごう輪中(東福永・西福永・東平賀・西平賀・西平賀新田・上之郷・古舗)の中心で、西側山除やまよけ(境川)の堤防沿いとその東側に西福永にしふくなが村があって美濃国石津いしづ(現岐阜県海津郡)に接し、東の揖斐川堤防沿いには東福永があって、対岸は郡内の油島あぶらじま新田(現同郡海津町)となっている。元和三年(一六一七)の開発と伝えられる(桑名郡志)。近世初期は桑名藩領、宝永七年(一七一〇)より幕府領


福永村
ふくながむら

[現在地名]東郷町北福きたふく

東郷池北東部にある御冠みかんむり山東麓に位置し、東は北方きたがた村。北のはら(現泊村)から倉吉往来が通じる。もとは尾後おじり村・尾尻村と称されたが(元禄郷帳・伯耆民談記)、天保郷帳では福永村となっている。拝領高五六石余、本免四ツ六分。山根氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高六一石余、高六〇石余、うち畑高六石余。


福永村
ふくながむら

[現在地名]長船町福岡ふくおか

福岡村の南、吉井川の左岸にあり、西は吉井川を挟んで寺山てらやま(現岡山市)。古くは上道郡に属していたが、吉井川の流路が変わったため、のち邑久郡へ編入された。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二五六石余。寛文四年(一六六四)の備前備中古新田帳には、高一〇七石余が記される。「備陽記」によると、田畑二一町三反余、家数三四・人数一七四。


福永村
ふくながむら

[現在地名]松任市福永町

源兵衛島げんぺいじま村の北東に位置。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(新松任町史)によると高三二石、免四ツ八歩、小物成はなし。寛文年間の家高数なし、百姓数二(高免付給人帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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