第2次世界大戦中のイギリスで,戦後の社会のあり方を期待して〈福祉国家〉という表現が用いられ,やがて世界的に普及した。それは,(1)大戦前の1930年代が,世界大恐慌の沈滞から脱却しきれないまま大戦に突入した,(2)第2次世界大戦が,それまでと違って全国民を戦争に巻き込む全面戦争の様相を呈した,したがって(3)国民の合意,協力を得るためにも,明るい戦後社会のイメージを呈示する必要に迫られた,などの事情を反映したものであった。そこで重要な役割を果たしたのが〈ベバリッジ報告〉(第2次大戦中にチャーチル首相の委嘱をうけて,W. ベバリッジを委員長とする委員会が出した報告書)であり,それは完全雇用政策を前提として,失業保険,年金保険,国営保健サービス,家族手当,国民扶助などの体系化によって貧困を解消できる,とするものであった。
〈福祉国家〉はもともと共産主義国家やファシズムの〈権力国家〉と対照させて使われたもので,すぐれて20世紀的用語であったが,歴史家はむしろ20世紀を19世紀と対比させて〈福祉国家〉の語を用いるようになった。そこでは〈夜警国家〉の時代の〈自由放任〉や政治的権利の強調に代わって,公益と社会的権利が強調されることになる。民主主義は労働者政党が加わって社会民主主義の形態をとり,資本主義も社会主義的要素をとり入れた混合経済体制に移行したと説明される。しかしながら,国家介入が増大した社会のあり方については,当初から新古典派経済学者の反対意見があり,ベバリッジ自身も本来の目標は福祉国家というより福祉社会であり,福祉国家の真の目的は人々に福祉国家なしですますことを教えることだと書いている。個人の企業家精神や民間団体に刺激を与え,相互扶助を盛んにしていけば,国家の役割を減らすことができると考えられていたのである。
福祉社会を真正面から取り上げた最初の学者はピーコックA.Peacockで,1960年に《福祉社会》を書いて注目された。そのなかで彼は1900年と60年を比較し,(1)政府支出(中央と地方の統計,以下同じ)は実質で約5倍,一人当りにして約4倍,対GNP比率は9%から35%へ,(2)政府職員は1891年から1950年にかけて勤労者の3.6%から14%へ,それぞれ膨張した。他方,豊かな社会において貧困はもはや過去のものとなった,と指摘して,これ以上の政府支出増大を抑制し,福祉社会を志向すべきだと主張した。
しかし60年代前半の社会調査は,イギリスでもアメリカでもむしろ貧困を再発見することになった。すでに古典となったハリントンM.Harringtonの《もう一つのアメリカThe Other America》やタウンゼントP.Townsendらの《貧困者と極貧者The Poor and the Poorest》が,豊かさの反面にある貧困の実態を実証してみせたからである。そうした貧困を緩和する政策として,一方で従来の選別的な救貧施策を充実しようとしたのに対して,他方では,むしろ普遍的な制度を活用して解決を図るべきだとする意見が高まった。そこから選別性対普遍性selectivity vs.universalityの論争が続くことになるが,その場合,経済学者M.フリードマンらは〈負の所得税〉という福祉外の普遍的な制度への依存を説き,社会福祉関係者は児童手当という普遍的な福祉制度の拡充を主張した。イギリスの場合,低経済成長が抜本的改正を許さなかったから,現実には選別的な公的扶助を普遍的な社会保険に一体化するという妥協的方策がとられてきた。自由主義経済学者はその後,福祉国家によって活力を失った社会を再活性化するためにも国家の役割の縮小,福祉社会への転換の必要を主張するようになる。同様に経済の停滞,高率のインフレと失業の共存,さまざまな社会的格差の顕在化などを背景に,フェビアン社会主義やマルキシズムの立場からも,福祉社会が説かれるようになった。前者は労働組合その他の社会システムが広範な連帯を忘れて利己主義的になり,さまざまな不平等を作り出す方向に活動する社会にあっては真の福祉国家はありえないから,まず福祉社会をつくる必要があると考える。後者は,福祉国家は本来国民の自由を制約しコントロールするものであるから,われわれはむしろ福祉社会の実現を目ざすべきだとする。かくてイギリスにおける福祉社会論はなおコンセンサスにはほど遠い状況にある。
日本では,第2次大戦まで天皇を頂点とする国家共同体的慈善が一面で軍国主義を助長したということがあって,戦後の福祉国家体制において公私分離が打ち出され,一方的に公的責任が強調された。他面,経済が壊滅状態にあって民間社会福祉事業の基盤が脆弱であったから,公的責任の民間委託という珍しい制度がとられ,健全な民間団体成育の芽を摘んでしまった。そのため住民と民間団体がともに〈公〉依存を強め,社会福祉は次々と新しい国・地方の制度を継ぎ足して発展することになった。そのため社会福祉制度体系は必要以上に細分化・複雑化し,官僚制化していった。本来〈必要の王国〉と〈自由の王国〉とを区分するために考えられたシビル・ミニマムが,かえってどこまでも公の責任を追及するスローガンに変質したのも,けだし当然であった。コミュニティ・ケア,ノーマリゼーションないしインテグレーション(正常化,統合化)--高齢者,障害児,障害者について,従来とかく家庭生活,教育,雇用など通常の社会生活の場から引き離して福祉を図ってきたのを改めて,正常な社会生活に統合したなかで福祉が保障さるべきだとする理念--といった地域ケアの理念も,コストのかかる施設ケアを支える公的責任を回避して,安上がり福祉を目ざすものと非難されることが多かった。
日本では,経済システムも早くから日本株式会社といわれるほど官民一体型であり,もともと自由市場経済の基盤が弱いところへ,社会主義の立場からもひたすら福祉国家が追求されてきた。したがってごく最近まで〈福祉国家〉と〈福祉社会〉とが区別されることも,パターナリズムのマイナス面が問題にされることも,ほとんどなかったのである。むしろ,出生率の低落によって急速な人口の高齢化が予測されるようになり(高齢化社会),他方では経済の低成長が定着して政府財政が窮迫し,年金財政も将来著しい高負担が予見されるに至って,ようやく福祉国家に対する〈福祉社会〉が論ぜられるようになった。そこでは,これまでの公の社会保険,社会福祉サービスに加えて,自助と連帯が重視され,ボランティア活動が推奨される。また,家族の老人扶養・介護は〈含み資産〉として評価され,福祉サービスはその維持・援助を図るべきものとされてきた。その場合,日本特有の家族の緊密さと経済の活力とに注目して,日本型福祉社会と表現される場合がある。それに対しては公の責任の回避とする批判があるほか,ケアの負担をもっぱら女性に負わせるものとする反対意見がある。いずれにせよ,将来に向けて福祉サービスを地域化・総合化しつつ柔軟かつ弾力的なものに転換していくには,やはり福祉社会を目標とする必要があろうが,そのためには,十分な情報公開を前提に国民的合意を築く心要がある。
→福祉国家
執筆者:星野 信也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…民主主義は労働者政党が加わって社会民主主義の形態をとり,資本主義も社会主義的要素をとり入れた混合経済体制に移行したと説明される。しかしながら,国家介入が増大した社会のあり方については,当初から新古典派経済学者の反対意見があり,ベバリッジ自身も本来の目標は福祉国家というより福祉社会であり,福祉国家の真の目的は人々に福祉国家なしですますことを教えることだと書いている。個人の企業家精神や民間団体に刺激を与え,相互扶助を盛んにしていけば,国家の役割を減らすことができると考えられていたのである。…
※「福祉社会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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