秋山郷(読み)アキヤマゴウ

デジタル大辞泉 「秋山郷」の意味・読み・例文・類語

あきやま‐ごう〔‐ガウ〕【秋山郷】

新潟県西部と長野県北部にまたがる、信濃川支流の中津川沿いにの地域の称。平家落人おちゅうどさととして知られる。日本有数の豪雪地帯

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日本歴史地名大系 「秋山郷」の解説

秋山郷
あきやまごう

中津なかつ川の上流見玉みたまからさらに渓谷を遡上し、雑魚ざこ川と魚野うおの川の合流点切明きりあけ(現長野県下水内郡栄村)に至る約三〇キロの間の左右両岸に点在する集落を含んだ渓谷地域の総称。見玉から上流へ、右岸に清水川原しみずがわら見倉みくらなかひら、左岸に穴藤けつとう逆巻さかさまき上結東かみけつとう前倉まえくら大赤沢おおあかさわが続く。ここまでが越後国で、さらに上流へ小赤沢こあかさわ屋敷やしきうえはら和山わやま(現栄村)とつないで切明に至る。切明はかつては湯本ゆもとと称した。交通路は中津川沿いに下って大割野おおわりのへ至る道、結東・宮野原みやのはら洪積世の高原を北西に進んでもり(現栄村)へ至る道と屋敷から鳥甲とりかぶと山の南麓を通ってカヤのたいらに出て木島きじま(現長野県飯山市)中野なかの(現同県中野市)に至る道がある。冬季には積雪が四メートル近くにのぼり、根雪は一一月下旬から五月上旬にまでわたることもある。屋敷の山田房由家所蔵の宝永元年(一七〇四)の秋山闔村縁由によると、秋山は鳥甲山における修験の行場を開闢とする。のち文治年間(一一八五―九〇)に平勝秀なる者が源頼朝に敗れて上野国草津くさつから鳥甲山を目指して敗走し、屋敷に居住したという。秋山郷を平家谷とする伝えは広く知られるところであったとみられ、鈴木牧之も「秋山記行」の自序に「世挙て、信越の境秋山をさして平家の落人と唱来たれど、平氏は何れの後胤と云ふ其素性だに知るものなし」と記し、旅の目的は平家落人伝説を尋ねることにあった。

元亨元年(一三二一)一〇月二四日の市河盛房譲状(市河文書)に「あけ山ハ往古よりさかいをたてわけさるあひた、いまはしめて立にくきによりて、こあかさわを十郎ニたふよりほかに、兄弟ともにもわけあたゑぬ也、さいもくとり、れうしなといれんニ、わつらいをいたすへからす」とみえ、「あけ山」は従来から境を区切ることの不可能な地域であったため、小赤沢を除き共有とし、木材の伐採や狩猟は入会と定めた。

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改訂新版 世界大百科事典 「秋山郷」の意味・わかりやすい解説

秋山郷 (あきやまごう)

長野・新潟県境の苗場山や鳥甲(とりかぶと)山などを刻んで流れる中津川渓谷にある山地集落。行政的には,長野県下水内郡栄村に属する切明(きりあけ),和山,上ノ原,屋敷,小赤沢の5集落,新潟県中魚沼郡津南町に属する大赤沢,中ノ平,前倉,上結東(かみけつとう),見倉,清水川原,逆巻(さかさまき),穴藤(けつとう)の8集落からなっている。鈴木牧之の《秋山記行》で著名である。伝承によると平家の落人集落であるというが,上州から野反湖経由で入った新田系の隠田百姓村だという説もあり,定かではない。秋田マタギが定住した子孫もあり,その起源は多元的である。長い間交通が不便で孤立していたことから,1897年になっても飢饉が発生して,死者が出ていた。1783年(天明3)の飢饉で,大秋山村(10戸),矢櫃(やびつ)村(6戸)が全滅し,また小赤沢村では22戸のうち9戸,173人が死滅した。さらに1831-34年(天保2-5)の飢饉では甘酒村(2戸)が全滅した歴史をもつ。焼畑耕作と狩猟,漁労,木工品製造を主体とする山村の生活は貧しかったが,1920年以来の発電所工事,第2次大戦後の森林資源の開発によって,地域の経済も大きく変わった。しかし,アカソ(イラクサ科植物)を原料としたあんぎんという布,シナノキの皮で編んだ籠,トチノキでつくった木鉢,にがりを使った豆腐製造,焼畑におけるアワやソバの栽培,熊の狩猟などに,古き時代の生活がみられる。観光的には,切明,和山,屋敷,逆巻に温泉があり,旅館・民宿も多い。イワナや山菜料理がうまく,新緑・紅葉が美しい秘境である。なお冬の積雪は2~3mに達する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋山郷」の意味・わかりやすい解説

秋山郷
あきやまごう

新潟・長野県境の中津(なかつ)川上流にある隔絶仙境。行政的には、下流の結東(けっとう)、前倉(まえくら)、大赤沢までが新潟県中魚沼(なかうおぬま)郡津南町(つなんまち)で、上流の小赤沢、屋敷(やしき)、切明(きりあけ)は長野県下水内(しもみのち)郡栄村(さかえむら)に属する。江戸時代、越後(えちご)国塩沢(しおざわ)(現、南魚沼市)の鈴木牧之(ぼくし)の『秋山記行』で一躍有名となった秘境で、平家の落人(おちゅうど)が住み着いたといわれる。津南町大割野(おおわりの)から中津川峡谷の難所を経て、小赤沢まで夏場はバスの便もあり、苗場(なえば)登山口の裏口にもなっている。明治以前は、米はとれず、ヒエ、アワ、豆類などの焼畑耕作と、トチの実、クリ、山菜が常食であった。昔の衣食住生活がいまも残されており、「民俗の宝庫」といわれている。屋敷にはその民俗資料館もある。そのほか、屋敷、和山(わやま)、切明には温泉がある。また、1937年(昭和12)ごろから東京電力の中津川電源開発が始まり、切明ダムの建設工事で道路開発が進み、現在は秋山郷保養観光レクリエーション地帯として、自動車で回ることができる。

[山崎久雄]

『鈴木牧之著『秋山記行』全2巻(復刊・1972・野島出版)』『鈴木牧之著『秋山記行・夜職草』(平凡社・東洋文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秋山郷」の意味・わかりやすい解説

秋山郷
あきやまごう

長野県北東端,栄村南部一帯の地域。中津川の谷にあり,四方を山に囲まれる。豪雪地にあって交通が不便なため,冬季は雪に閉ざされる。 1960年代まで焼畑耕作が行われ,秘境と呼ばれてきたが,電源開発や観光を目的に道路が整備され,生活様式も変化した。民俗館や切明温泉,和山温泉,屋敷温泉などの湯治場がある。

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世界大百科事典(旧版)内の秋山郷の言及

【魚沼地方】より

…全国有数の豪雪地帯(積雪量は平年で3m)で,昭和初めに通じた上越線沿線に多くのスキー場が開設され,1980年代には鉄道,道路が急速に便利になって温泉と相まって観光開発が進められている。湯沢温泉は川端康成の《雪国》の舞台であり,秋山郷は塩沢出身の鈴木牧之(ぼくし)の《秋山記行》で知られ,山村生産用具は民俗文化財に指定されている。【磯部 利貞】。…

※「秋山郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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