日本歴史地名大系 「秋田城跡」の解説
秋田城跡
あきたじようあと
秋田市の西北、
「続日本紀」天平五年(七三三)一二月二六日条に「出羽柵遷置於秋田村高清水岡
」とあり、出羽国北部の開拓、蝦夷地経略のため
余年、土地
埆、不
宜
五穀
、加以孤
居北隅
、無
隣
相救
」とある。築城以来四〇余年を経過したとあるので、天平宝字八年(七六四)以前に秋田城となったと考えられる。天平宝字四年の丸部足人愁状(山田幸太郎氏蔵)に次のようにあり、越前の国から「阿支太城」に米を運搬していたことがわかる。
天長七年(八三〇)正月大地震が起き、秋田城のおもだった建物はことごとく倒壊した。「類聚国史」に「今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城官舎并四天王寺丈六仏像、四王堂舎等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損之類一百余人也」とあり、秋田城に城郭・官舎・四天王寺・四王堂などが存在したことがわかる。
秋田城跡(秋田城跡発掘調査概報)
あきたじようせき
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報