戦国期の武将。父種子島13代当主恵時(しげとき)、母島津薩州家忠興(ただおき)の娘。種子島氏は、平清盛の孫行盛(ゆきもり)の子時信(ときのぶ)が鎌倉幕府から南島12島の支配を命じられ初代となったというが、実は地頭名越(なごえ)氏の代官出身で、室町期以降種子島を統治した領主である。時尭15歳の1543年(天文12)3月大隅半島の禰寝重長(ねじめしげなが)が、家督に就いていた恵時が民を苦しめているので追放しようと種子島に攻め込むと、恵時は屋久島に逃れて時尭が屋久島を割譲するなど妥協し種子島氏を維持し、重長が帰ると4月には恵時が帰島した。時尭の政治力は若年より優れていた。8月漂着の南蛮人(ポルトガル人)が持っていた鉄砲に目を付け、譲り受けて射撃術を学び製作技法を家臣に習わせ、鉄砲の日本伝来を主導し、種子島銃として普及した(なお鉄砲伝来の年次にはヨーロッパの史料よる異説がある)。時尭が西洋の文物に注目していた結果である。1555年(弘治1)以降戦国大名島津氏に属し、娘を当主島津義久の室とし、伊東、肝付(きもつき)、禰寝、伊地知(いじち)各氏の攻撃にも屈せず所領を保持し、戦国大名島津氏に信頼され、国衆ながら藩政期に一所持格の家筋(私領主家)となる基礎を築いた。なお、鉄砲の伝来については『種子島家譜』巻4(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ四』1994・鹿児島県)所載の「鉄炮記」が詳細である。
[三木 靖]
『種子島家編纂『種子島家譜』巻2・3(鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ四』・1994・鹿児島県)』
(今谷明)
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戦国時代の武将。種子島氏14代。犬楠丸,左兵衛尉,弾正忠,左近将監,直時,可釣と称する。父は恵時。戦国大名島津貴久,義久に従う。1543年(天文12)ポルトガル船の種子島漂着のとき,父の恵時と応対し,鉄砲2丁を贈られ鉄砲の法を家臣に学ばせた。禰寝(ねじめ)氏との抗争があり屋久島に築城した。55年(弘治1)島津氏とともに蒲生氏攻めに従い,60年代肝付氏攻めに家臣を派遣した。娘は島津義久に嫁した。
執筆者:三木 靖
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1528.2.10~79.10.2
戦国期の大隅国種子島領主。父は恵時,母は島津忠興の女。犬楠丸・直時。弾正忠・左近将監。法名可釣。漂着船から日本ではじめての鉄砲を入手したことで有名。1542年(天文11)父と対立するが,島津貴久の調停により和睦。60年(永禄3)子時次に家督を譲るが,62年その死により家督に復した。島津貴久・同義久の2代にわたって仕える。後室は島津貴久の姉だが,のち別離。女は島津義久の後室。
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…このとき伝えられた鉄砲はエスピンガルダと呼ばれた南欧系の先込め式火縄銃で,口径18mm前後,最大射程200m,有効射程40~50mくらいのものであった。《鉄炮記(てつぽうき)》によれば,時の島主種子島時尭(ときたか)は鉄砲の威力に驚き,2000金を投じて鉄砲2梃を譲りうけ,みずから日夜射撃の練習に励み,百発百中の腕前になり,また家臣らに命じて火薬の製法を学ばせ,鉄砲製作を研究させ,ついに鉄砲の国産化に成功したという。のちに鉄砲は発祥の地にちなんで種子島とも呼ばれた。…
※「種子島時尭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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